先日、栃木県の足利市に行ってきました。日本最古の学校と言われる足利学校を参観したり、森高千里さんの歌で有名な渡良瀬橋で沈む夕日を眺めてきたりしたのですが、途中、町中にある本屋にも立ち寄りました。地方の本屋には郷土の本が置いてあるので好きなのです。そこで期待したとおり、素敵な本に出合うことができました。船曳由美さんの『一〇〇年前の女の子』(文春文庫)という本です。足利市の村を舞台に成長していく女の子が主人公の小説です。母親が語ったことを、娘である著者が書き記したものですが、子ども時代のことがとても詳しく描かれていて、母の記憶力と娘の描写力に驚かされます。この本自体はどこでも手に入るものでしたが、足利の本屋でなければ目に留まり手に取ることはなかったはずなので、偶然の出合いに感謝です。
そこに書かれた子ども時代の記録は本当に豊かなもので、読んでいて羨ましいとさえ感じられるものでした。雨が降っても風が吹いても、基本的には同じ生活を送ることが当然とされる現代の都市生活とは違い、自然と対峙しなければ生きていけなかった農村での生活は、それだけに季節の変化に敏感であり四季折々の祭事も多く、記憶に残ることも多かったのかもしれません。しかしそれだけが原因ではないでしょう。多くの人にとって、子どもの時代は同じ時間でも長く感じられるものです。小学校の六年間や中学校の三年間は、大人になってからの同じ時間と比べると長かったように感じられます。いまとなっては信じ難いことですが、二十分程度の休み時間でも校庭に出てドッジボールを一試合終えて戻るということをやっていたのですから、本当に時間が長かったのかもしれません。
一般的に楽しい時間は速く過ぎ去り、退屈な時間は長く感じられるものですが、この場合この法則は当てはまらず、時間の密度が違うように思います。意外かもしれませんが、子どもたちは時間の使い方が上手いのです。「それはない」と思われる方もいらっしゃるかと思いますが、大人の考える時間の使い方とは違います。「次の予定のためには、ああしてこうして」という未来に捕らわれた時間の使い方ではなく、「いま」という現在を生きるという意味で、子どもは時間の使い方が上手いのです。大人から見るとただ「ぼーっとしている」ように見える時間も、子どもにとっては「いま」を堪能している時間です。多くの子どもたちがやっている消しゴムのカスを丸める遊び(私もやっていました)も、「いま」目の前にあるもので遊べるものを探した結果でしょう。可塑性のある物質を捏ねまわして、何かをつくろうとする行為は、人間にプログラミングされた大いなる力であり、やがては土器の発明につながり、食物の貯蔵が可能になり…というのは大げさにしても、「いま」に集中し没頭している時間であることは、疑いようがありません。
やがて成長し、言語の力が高まって、認知が言語に支配されるようになると、次第に「いま」が追放されていきます。電車に乗ればスマホを見たり、本を読んだり、考えごとをしたり、「ここではない何か」に心が奪われてしまいます。大人にとってそれは必要なことでもあります。文明がこれだけ発達した現代において、「いま」しか考えないことは無責任なことであり、先々のことも考えるのは大人にとって当然の義務だとも言えます。ただ、子どものように目の前の景色を純粋に眺め、車窓についた水滴に映る逆さまの世界に魅了される、まさに「いま」を堪能する時間もまた貴重な時間の使い方ではあるのです。
中島義道さんの『晩年のカント』(講談社現代新書)によれば、哲学者のカントはこのように語っていると言います。「何も為すべき仕事をもたない人びとには、どんな時間でも随分長く感じられるが、回想すれば、その長かった時間もどこに在ったかわからないほど短く思われてくる。しかし仕事に忙しい人には、これが逆に感ぜられる。」カントに従えば、長かった子どもの時代は「為すべき仕事」を持っていたと言えるでしょう。子どもたちにとってそれは「いま」を堪能することです。「ぼーっとしている」ように見える、そのまなざしの向こう側で、「いま」という時間を見つめているのしょう。この世に長く生きて慣れてしまっている大人は忘れがちですが、世界は不思議な魅力にあふれているものです。子どもたちは純粋な目で、世界の「いま」の魅力を見つめているのです。
花まる学習会 山崎隆
🌸著者|山崎隆
東京東ブロック教室長。千葉県の内陸部出身。2歳上の姉と3歳下の弟と、だだっぴろい関東平野の片隅で育つ。小さい頃、外遊びはもちろんだが室内で遊ぶのも好きで、図鑑を開いては恐竜のいる世界を想像していた。高学年の頃より伝記を通して歴史に親しむ。休みの日には、青春18きっぷで目的もなく出かけることを楽しみにしている。