花まるの教室では「できたー!」という子どもたちの声が響かない日はありません。キューブが完成したとき、問題が解けたとき、子どもたちは手を広げて「できたー!」と声を上げます。
このように言葉に出すことの意義は、はたで見ているよりも大きいものだと実感しています。こうすることにより達成感を得られますし、それによって自信も育まれていくことでしょう。実は大人であってもこれは効果があります。毎日の家事やちょっとやっかいな仕事が終わった後に小さい声でも「できたー!」とやってみると、想像以上に達成感を得られます。こっそりやってみることをお薦めします。
さて、この「できたー!」ですが、それ以外にも重要な意味があると考えています。それは「決断」することです。夢中になって考えている間に解けてしまった問題もあれば、考えに考え抜いても100%の自信にまでは至らない問題もあります。そのような場合でも「自分はこれが正しいと思う」「ここまでは考え切った」という、それぞれの思いで発せられる「できたー!」は、一つの「決断」の証と言えます。この小さな「決断」を繰り返すことで意思決定の力も育まれていくはずです。
どんな課題であれ仕事であれ、自分のなかで「完成させた」という「決断」は必要になります。絵でも音楽でも文章でも、完成度を追求すれば切りがありません。しかし、どこかで自分としては納得のいくところまでやり切ったと判断し、ピリオドを打つ意味での「できたー!」が必要なのです。
そういった意味では、子どもたちの「できたー!」にもさまざまな色彩があると言えます。自信満々の「できたー!」もあれば、自信はないけれどやり切ったという「できたー!」もあるわけです。そのすべてに「決断」したという意味があります。
ここで事例を一つ、教室に通う二年生の男の子の話です。彼はある思考力問題を解いたとき、「できたー!」と言って自信満々に答えを見せてくれました。しかし、そこで普段なら言わないひと言がおまけとしてついてきたのです。
「ぜったいできてる」
このセリフは何だろうか、と最初は思いました。あまり大口を叩くタイプの子ではないのです。しかし、彼の答案を見て納得しました。その解答が正しいかどうかを検証した跡がびっしりと書き込まれていたのです。そのうえで彼は「根拠のある自信」を持って「ぜったいできてる」と言ったのです。
これは、ただ単に「見直しをした」というレベルではありませんでした。出てきた答えを当てはめて検証し、自分が出した答えが成り立っていることを確認した跡が解答にありありと見えたのです。反対から考えて成り立つことを確認したうえで「ぜったいできてる」というセリフが自然と出てきたのでしょう。
このように考えることは科学的な思考の第一歩だと思っています。20世紀の哲学者カール・ポパーは、科学を「反証可能性があるかどうか」というように定義づけをしました。たとえば「幽霊はいる」ということに対しては「幽霊はいない」と反証することができないので、「科学的とは言えない」という理屈です。「地球は球体である」ということは、そうではないことを証明すれば覆るので科学と言えることになります。逆を言えば、科学は常に「覆る可能性を孕んでいるから科学」と言えることになります。
子どもたちは「これで正解だろうか?」と自分で検証しているうちに反証可能性を探っていきます。この科学的に考える思考の芽を大切にしてほしいと思っています。現代社会では科学なしで社会を成り立たせることはできません。しかし科学技術の発展は、科学的思考の発展を必ずしも意味しません。その科学の対象も原子力やウイルスなど目に見えず、簡単に確認できないものになっているうえ、その影響力もはかり知れないものになっています。「科学的に正しい」と言われることも「現在のところは」というカッコがつきます。そのなかで「反証される可能性がある」と考えて判断していく必要があるのです。科学を神話にしないために、このような思考が必要だと考えています。
花まる学習会 山崎隆
🌸著者|山崎隆
東京東ブロック教室長。千葉県の内陸部出身。2歳上の姉と3歳下の弟と、だだっぴろい関東平野の片隅で育つ。小さい頃、外遊びはもちろんだが室内で遊ぶのも好きで、図鑑を開いては恐竜のいる世界を想像していた。高学年の頃より伝記を通して歴史に親しむ。休みの日には、青春18きっぷで目的もなく出かけることを楽しみにしている。