挨拶が終わり、子どもたちが教室を出ていきます。「先生、さようなら!」そう言う四年生の男の子の手には、鉛筆が裸のまま握られていました。さては筆箱にしまうのが面倒で、そのまま手で持って帰ろうとしているな……。そう思った私は声をかけました。するとその男の子は「え……」と一瞬バツの悪そうな顔をしましたが、続けて少し照れながらこう言いました。「えーと、これフルートの練習しながら帰りたいんです……」
なるほど。鉛筆をフルートに見立てて、指使いの練習をしたいという意味のようです。意味がわかったとたん、花が開くように嬉しい気持ちが私の心のなかにも広がりました。子どもが熱中できるものを見つけるということは、それを見守る大人にとっても嬉しいことです。そういえばその日の授業でも吹奏楽を始めたことや、フルートが金属でできているにもかかわらず木管楽器であることを熱心に語り、作文でも音階を吹けたことの喜びを書いていました。年長から見てきた子です。これまでも遊ぶことや食べることが大好き(それらも大切なことです)でしたが、十歳を目前にして、わずかな時間でも鉛筆を見立てて練習に使ってしまうほど熱中できるものを見つけたようです。
「環世界」という言葉があります。生物学者のユクスキュルが『生物から見た世界』(岩波文庫)のなかで提唱した言葉です。私たち人間は、一つの世界のなかに、人間や動物が存在していると認識しています。同じ時間、同じ空間のなかをすべての生物が生きていると無意識に考えています。しかしそのような客観的な世界は存在せず、すべての生き物はそれぞれ別々の空間と時間を生きていると、ユクスキュルは言います。その個別の世界を「環世界」とユクスキュルは名づけました。
これだけではわかりにくいので、ユクスキュルはダニを例に挙げて説明します。ダニは森や林の茂みのなかで、哺乳類が通るのを待っています。哺乳類が通ると、哺乳類の皮膚の上に飛び降り、皮膚を咬んで血液を吸い産卵に備えます。しかしこの説明は人間の「環世界」に沿った説明になっています。実際にダニは「哺乳類」が通ったから飛び降りるのではなく、哺乳類の皮膚から発せられる「酪酸」という物質に反応して飛び降り、摂氏三十七度という「温度」に反応して、哺乳類の皮膚に着地したことを認識し、吸血を始めるのだそうです。つまりダニの「環世界」には「哺乳類」も「皮膚」も存在せず、ただあるのは「酪酸」と「温度」ということになります。このような「環世界」があらゆる生物に個別に存在していて、ダニと比べるとはるかに複雑に世界を捉えていると思われる人間の生きる世界も、一つの「環世界」に過ぎないことになります。
哲学者の國分功一郎さんは『暇と退屈の倫理学』(新潮文庫)のなかでこの考えを推し進め、人間はほかの生物と違い複数の「環世界」を自由に行き来できる、と書いています。子どもも大人と違う「環世界」を生きています。子どもの頃、スーパーマーケットに行くとお菓子コーナーだけが輝いて見えましたが、いまの私は値引きシールにしか反応しない「環世界」に生きています。
人間がこのように「環世界」を自由に行き来できるのは、学ぶことができる生き物だからでしょう。空に浮かぶ「お月さま」が地球を回る衛星であり、地球の重力と遠心力の均衡のうえに軌道を描き、アポロ11号が着陸し、かぐや姫の故郷でもある……。学んだら学んだ分だけ、さまざまな「環世界」の月を眺めることができます。
フルートに目覚めた男の子は、フルートを通して世界を見る「環世界」に入り込んだのでしょう。彼の目を通せば鉛筆さえもフルートに見えてしまうのです。それほどまでに熱中できる世界を手にできたことは、間違いなく彼の人生において幸福なことだと思います。これから耳にするものすべてが、いままでと違った色彩を持って聞こえてくることでしょう。
大切なことは、運命のめぐり合わせで入り込んだ「環世界」であっても、思う存分その世界を堪能することだと思っています。子どもの時代にしか感じられないことを、しっかりと感じ味わい尽くすこと。どうせいずれやってくるのですから、急いで大人の「環世界」に入る必要はありません。魅力的な人というのは、大人になってもどこか幼い一面を必ず持っているものです。それは本当に幼いのではなく、子どもの頃の「環世界」へも自由に行き来できているということなのかもしれません。私には鉛筆をフルートに変身させる瞳が、羨ましくてなりません。
花まる学習会 山崎隆
🌸著者|山崎隆
東京東ブロック教室長。千葉県の内陸部出身。2歳上の姉と3歳下の弟と、だだっぴろい関東平野の片隅で育つ。小さい頃、外遊びはもちろんだが室内で遊ぶのも好きで、図鑑を開いては恐竜のいる世界を想像していた。高学年の頃より伝記を通して歴史に親しむ。休みの日には、青春18きっぷで目的もなく出かけることを楽しみにしている。