ある日、長女が少し改まった声で、こう聞いてきました。
「彼氏と私から話があるんだけど、次の休みはいつ?」
その一言で、だいたいのことはわかりました。それでも私は、深くは聞きませんでした。来るべきときは、ちゃんと来る。そう思っていたからです。
当日、長女は家にいて、彼氏が一人で家に来ました。スーツ姿で、少し緊張した表情でした。いつもより言葉数少なめで、どこかぎこちない空気。しばらくして、彼は背筋を伸ばし、もじもじしながら、それでも真っ直ぐに言いました。
「娘さんと、結婚させてください」
その瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけたような気がしました。気がつけば、ずっと昔の場面が浮かんでいました。
長女が、初めてしゃべったときのことです。ラムネ型のお菓子が大好きで、でも、自分ではふたを開けられない。小さな手で容器を差し出しながら、必死に言った言葉が、
「あけてー」
それが、長女の最初の言葉でした。
長女は三歳からダンスを始めました。夢は、ディズニーのダンサーになること。中学生のとき、高校生しか通えないダンス部に、自分から願い出て入部した子でした。厳しい練習から逃げずに踊り続け、いまでは母校のダンス部のコーチとして、生徒たちを全国大会へ導いています。
いつも次女のことを気にかけ、前に立ち、守るように歩いてきた長女。その姿を見てきた次女は、今回のことを自分のことのように喜んでいました。
そういえば、と思い出すことがあります。
台風の日、びしょ濡れになりながら、弱った子猫を抱えて帰ってきたことがありました。自分はずぶ濡れなのに、猫だけは濡らさないように抱えていました。
次女に少しいやなことをされても、いつも笑顔で跳ね返していました。強く言い返すのではなく、なぜか最後には笑って終わっていました。
クラスでいじめられている子をかばい、それが原因で自分が標的になったこともありました。それでもどこかで受け流しながら、最後には自分の立ち位置を取り戻していました。
長女にかかわった大人は、いつも同じことを言っていました。
「優しい子だね」
「人の気持ちに寄り添える子だね」
私は長女を叱ったことがありません。意図的にそうしていたわけではなく、叱る必要がなかった、というほうが近いのかもしれません。気がつけば長女は、私に対しても変わらず優しさを向けてくれていました。
親戚の集まりでも、不思議とみんなが長女の名前を呼びます。特別なことをしているわけではないのに、自然と人の中心にいるような子でした。私は、そうした長女の姿を、どこか当たり前のものとして受け取っていたようです。
でもいまになって思います。ああ、あの子はずっと、そうやって生きてきたのだなと。
目の前にいる彼を見ながら、私は、これまでの娘の歩みを思い返していました。だから私は、考えるふりをせずに答えました。
「いいよ」
短い返事でした。その場では、それしか言えませんでした。あとで妻に、
「もう少し何か言えばよかったんじゃない?」
と笑われました。
確かに、そう考えることもできます。でもあのときの私には、あの一言で、すべて足りていたように思います。嬉しかった。そして、少しだけ寂しかった。それでも、父として一番強く感じていたのは、「もう心配はいらないな」という気持ちでした。
親は、子どもを育てながら、少しずつ手放す準備をしているのかもしれません。そしてその日が来たとき、言葉は案外、少なくて済むものです。
あの頃、「あけてー」と言っていた小さな娘は、いま、自分の人生の扉を、自分の手で開こうとしています。このコラムを書きながら、少し涙が出そうです。これまで一歩ずつ積み重ねてきた、娘の歩みでした。いま娘は、静かに自分の人生を紡いでいます。
花まる学習会 箕浦健治
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