先日、旧友と会った際に職場の愚痴を聞きました。
「すぐ目の前で先輩が動いているのにスマホを触ったりのんびりお昼を食べたりする新人がいる。『手伝いましょうか』と言わない。先輩が仕事をしているのを見て何も思わないのか、そもそも気づいていないのか……」
ん? なんだ、この既視感は。まるで自分が責められているような。思いめぐらせていると思い当たりました。
「あ、家での自分と同じだからか!」
この“旧友”はわが家の妻で、“新人”は私。妻が皿を洗い、洗濯物をたたむ、その傍らで私がスマホを見ていたりダラダラしていたり。これとまったく同じだと妙にすっきりしました。彼に「いや、きっと悪気はないよ。単に気づいていないか、もしくはあとでやろうと思っていたんじゃないかな」と言いました。
きっとその新人も、そして私も悪気があってそうしているわけではありません。手伝う気がないわけでもありません。本当に。ただ、いまは休憩タイム、ゆっくりしていたい。あとでやればいいか、と思っているうちに妻がどんどん自分で進めてしまうのです。「あとで俺がやっておくから」と言っても、「いい、それなら私がやるから」と。当然「あなたは全然やらない」とイライラさせてしまうことになります。後述しますが、学んだことによりいまはそういうことがなくなりましたが、 「自分でやるって言ってなぜイライラしているんだ?」と以前はまったくわかっていませんでした。何をわかっていなかったかというと、たとえば
「 (夕食後の)食器を洗っておいて」「わかった」とよくあるようなやり取り。この互いの一言にはそれぞれの異なる思いが省略されています。
「食器を『いま』洗っておいて」
「わかった『あとでやるね』 」
いまやってほしいからお願いしている妻と、あとでやればいいと思う私。なぜいまかといえば、まだほかにやることがあると先が見えている妻。それに対して今日中であればいい、洗っておしまい、とそこしか見えていない私。妻の頭のなかでは、私が夕食後の片付けをしている間に洗濯物をたたみ、明日の保育園の準備もして、そのあと翌日の夕食準備に取り掛かる、という算段ができています。新人の私はそのような算段があるとは到底思いつかず「あとで」なんて呑気に構えていますが、その私の目の前で妻が黙々と家事を進めていきます。 そして最後になって「あ……!」と思うのです。
「いまから明日の夕食準備をするのか!? じゃあ先にやるべきだった……」
「食器を洗っておいて」の意味をいまは想像できるようになりました。
「明日は出勤で帰りが遅くなるから夕食を作る時間がない。今日のうちに明日の夕食を作っておきたいから、私が洗濯物をたたんでいる間に夕食後の食器を洗ってキッチンを片付けておいて」
こうして一つ見えるものが増えたのと時を同じくして、ふと妻にこのようなことを言われました。
「保育料、いくらか知ってる?」
わが子の保育料……? 知らない! 家庭のことをなんにも知らないし見えていない、とこのとき強く自覚しました。わが子のことなのに、妻におんぶにだっこ状態……。だから、自分が見えていること・気づいたことはいまやろう、と改めました。子どもが遊び散らかしたものを片付ける、洗濯機が「ピーッ」と鳴ったら洗濯物を取り出してたたむ、など。私の想像が及ばない部分は妻に補ってもらえるように。さらには、見えていないゆえにいっそのことどんどん指示を出してくれ、言われた通りに動くから、とさえ思いました。最近、その指示によって初めて知ったことがあります。予防接種の問診票はこんなに何枚も何種類もあるのか……! と。
会社では中堅どころ、家では新入社員。そんな新人が子育て3年目を迎えたつい先日、このコラムを書くにあたり「前はこうだったよね」と妻に話してみました。
すると、「あれ、そうだっけ? あ~、前はそうだったね」と言われるぐらいには成長しました。「見ているものが全然違ったね」とも言われ、グサッともきましたが。きっと旧友の職場の新人も、3年後には会社の力になれるのではないか、と思うのです。しかしそれと同時に、そもそも妻も子育て歴は私と同じなわけで、それにもかかわらず1年目からバリバリやれているのかと驚愕もします。出産前もあとも、本やネット等で調べて備えていた姿をいまさらながら思い出し、敬意の念を抱きました。そして、できることをこれからも増やしていこう、いまに満足してはダメだぞ、と自分に言い聞かせました。
花まる学習会 榊原悠司