【花まるコラム】『素読で豊かな人生を』船水萌

【花まるコラム】『素読で豊かな人生を』船水萌

 「音読」と「素読」の違いってなんだろう。ふと、そう思い調べてみました。「音読」とは、そこに書かれている内容を理解しながら、本を声に出して読むことだそうです。「素読」とは、意味がわかる・わからないにかかわらず、本の文字を声に出して読むこと。つまり音読と素読の違いは、意味を理解するかしないか、です。

 学校でよく出される宿題は、音読。花まる学習会の低学年コースで扱う「たんぽぽ」は、素読教材です。たんぽぽでは『枕草子』『論語』『方丈記』など、さまざまな作品を扱います。どうせやるなら意味を理解したうえでの音読が良いのではないか、そう思う方もいると思います。しかし、素読をしている子どもたちを間近で見ていると、理解云々よりも「この空間を大事にしたい!」と心から思うのです。そして、素読は花まる学習会らしい時間を生み出しているとも思います。教室でのたんぽぽの時間を覗いてみましょう。

 1年生のAくんは、4月は初めてのことに対する不安から、スムーズに授業へ参加することに難しさがありました。5月になり、少しずつ慣れてきた頃、たんぽぽの時間になると、私のほうを見て「一番はじめは一ノ宮!」と口を動かし始めたのです。テキストは手に持っていませんでしたが、Aくんは純粋にその空間に入ってみたくなったようです。いまでは、テキストを格好よく持って、イキイキと肩を揺らしながら皆との素読を楽しんでいます。

 ある授業では、2年生と3年生の子が横並びに座りました。たんぽぽの時間、その子たちの足元を見てみると、右足で小さくリズムを踏んでいるのです。声の響きとリズムを楽しんでいる様子がわかります。

 一緒に声を出している私自身、30人以上の声がぴたっと揃うその瞬間が大好きです。意味は理解していなくても、皆でこんなに日本語の響きを楽しめる。そして、この時間は、十人十色な皆が特性や性格、能力の違いを超えてお互い響き合っているように感じます。大袈裟に聞こえるかもしれませんが、多様性が叫ばれているいまの時代こそ、必要とされている精神を体得できる時間であると信じています。

 江戸時代の寺子屋や藩校では、素読が徹底的に行われていました。私が毎週見ていた大河ドラマ「青天を衝け」の好きな1シーンを紹介させてください。主人公・渋沢栄一は徳川慶喜のもとで働いていましたが、それぞれに転機が訪れます。慶喜が第15代将軍になり、渋沢栄一はパリに行くことになるのです。栄一がパリに旅立つ前に、慶喜に挨拶に行ったときのこと。それぞれの新たな挑戦を胸に、二人は声を揃えて論語の一節を唱えます。

 「勝事(かつこと)ばかり知りて、負くることを知らざれば害その身にいたる。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるよりまされり。」
(勝つことばかり知って、負けを知らないことは危険である。自分の行動について反省し、人の責任を攻めてはいけない。足りないほうが、やり過ぎてしまっているよりは優れている。)

 慶喜と栄一は生まれも育ちも、身分も異なります。しかし、二人とも幼い頃から学問を大事にし、論語の素読をして育ちました。そして出会い、お互いの知識や気持ちや関係性を確認するかのように、ぴたりと声が揃う。立場や身分の違いを超えて心が通じ合ったことを表現したこのシーンが、私は大好きです。

 人と人が簡単につながれる現代。濃い関係を築くのに、文学的な教養が貴重なきっかけになることだってあるはず。ちなみに、英語花まるでも、シェイクスピアやウィリアム・ブレイクの作品の素読をしています。育った場所や環境は違う。そうすると価値観だって違うかもしれない。けれど、幼い頃に素読をしてきた者同士、どこかで出会い、心を通わす。花まる学習会での豊かな素読経験の後には、そんな体験が待っているかもしれません。

花まる学習会 船水萌(2021年)


*・*・*花まる教室長コラム*・*・*

それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。

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