【タカラモノはここに⑥】『祖父に教えてもらったこと』山崎隆 2022年10月

【タカラモノはここに⑥】『祖父に教えてもらったこと』山崎隆 2022年10月

 この仕事をしていると、多くの子どもたちがおじいちゃん、おばあちゃんのことを慕っていることがよくわかります。「今日ね、花まるが終わったらじいじのうちに行くの!」という報告を頻繁に受けます。私にも甥や姪がいますが、彼らも、私の両親でもある祖父母をたいそう気に入っているらしく、「じいじ」「ばあば」と言って振り回しています。両親も孫のわがままに「まったく…」と言いながらも、楽しそうに「じいじ」「ばあば」になっています。
 この「じいじ」「ばあば」という単語、最初に聞いたときは驚きでした。私にとって祖父母は少し恐れ多く、冗談でも「じいじ」「ばあば」と呼べる存在ではありませんでした。いま思えば、みな優しく「何をそんなに恐れていたのだろう…」と思ってしまいますが、引っ込み思案だった私には、両親以外の大人は敬遠する対象だったのです。

 新潟の加茂という町に、父方の祖父母が住んでいました。雪の降る町です。近くには山があり、その中腹に神社があります。その神社の参道はふもとを流れる緩やかな川に続いています。その参道と、雁木と呼ばれる雪国特有のアーケードが続く商店街が交差するまちかどに、祖父母の家はありました。祖父母はそこで小さな飲食店を開いていたのです。盆と正月の帰省の度に、夏は小豆アイスを、冬には今川焼を孫たちにくれました。お店のほうまで回って「おじいちゃん、今川焼ください」と言うのにも私は緊張していましたが、そのときにもらえた今川焼よりおいしい今川焼を食べたことはいままでありませんし、今後もないことでしょう。
 祖父に厳しく叱責された記憶があります。お年玉か何かを祖父に手渡されたときのことです。緊張していたのでしょう。受け取るとすぐに母の膝に逃げ込んだのです。「たかし、ものをもらったら『ありがとう』と言わなければいけません!」と厳しく叱られました。大人になったいまわかることですが、あれほど的確な説教はありませんでした。矢のように放たれた言葉は、私の倫理観の中心を射抜き、いまなお黄金律の如くその教えを守らせているのですから。
 祖父に直接何かを教えてもらったことは、それ以外にはなかったかと思います。昔の男でしたから口数も少なく、会話も「よく来てくれたね」と「また来てね」と言われるくらいでした。言葉や理屈で何かを教えてもらうことはあまりなかったのです。
 私が二十歳を迎える夏、祖父は亡くなりました。悲しくはありましたが、それは突然のものではなく、来るべきときに来たもので、大人になった私には受け入れられないことではありませんでした。神仏をまったく信じていなかった祖父ですが、葬儀は形式通り行われました。火葬されるときになって悲しさがこみ上げてきました。いよいよ最後のお別れだと思ったのです。そのとき火葬場で職員の方が話しかけてくれたことをいまでも鮮明に覚えています。「参道の角の山崎さんですよね。夏祭りで神社から川に行くときに、いつも小豆アイスを買っていたんです。毎年あれが本当に楽しみでしてね…ありがとうございました」こう言って、静かに手を合わせてくれました。
 そのとき、私は想像したこともなかった若き日の祖父の姿を思いました。汗水たらして働き、家族を養い、町の子どもたちを喜ばせる一人の青年としての祖父の姿が思い起こされたのです。その一生懸命生きる姿が、回りまわって孫の私に伝わってきたとき、その人生がとても美しいものに思えました。
 結局、一番大切なことは祖父に教わったのだと思っています。ただただ一生懸命に生き、まじめに働き、家族を養うこと。それは言葉にして教えてもらったものではありません。祖父の人生全体を通して伝えられたものです。

 祖父の死から二十回目の夏が過ぎました。あの頃は若かった私の両親も孫を持ち、おじいちゃん、おばあちゃんになりました。ただ、私の祖父母とはだいぶ違った、孫に甘過ぎる「じいじ」と「ばあば」になっていて、「ちょっとどうなのか」と思うこともありますが、あまり心配はしていません。祖父母と同じくまじめに生きてきた両親のことです。別の形で、同じことを伝えていくのでしょう。

花まる学習会 山崎隆


🌸著者|山崎隆

東京東ブロック教室長。千葉県の内陸部出身。2歳上の姉と3歳下の弟と、だだっぴろい関東平野の片隅で育つ。小さい頃、外遊びはもちろんだが室内で遊ぶのも好きで、図鑑を開いては恐竜のいる世界を想像していた。高学年の頃より伝記を通して歴史に親しむ。休みの日には、青春18きっぷで目的もなく出かけることを楽しみにしている。

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