ある同僚の作成した資料について、私はこう思いました。「これ、もうちょっと考えられたんじゃないのかなあ」「ここ、事前に想定できたんじゃない?」何とも言えない…もやもやした感じがあったのです。それは言い換えれば「自分の抱いていた期待に比して、低く感じられた」ということでした。「これくらいはできていてほしいのに」と、やるせない思いを抱く結果になるのは、相手への期待があればこそでしょう。
一方、おもしろいもので、2歳になる甥っ子がやることは「すごいね~!」と手放しで絶賛してしまいます(笑)。走り方が上手になっていたり、こちらの発言を意味はわからなくとも真似できるようになっていたり。すべてが変化に満ちていて、成長を感じさせるものであることはもちろんですが、一番には私の期待が、彼に対してはつゆほども働いていないということがあるように思います。
期待して、外れて、がっかりしたり怒ったり。「期待」って、人間関係の大テーマだな。そんなことを考えていた折、自動外観検査装置でトップシェアを誇るSAKIコーポレーション・秋山咲恵さんのご著書の一節に目がとまりました。
「相手に対しての期待は自己都合に基づく期待であることが多い。そうすると、私の勝手な期待値を原点に評価された相手は、よほどのことがないかぎり基本的にはマイナス評価を受けることになる。そもそも、評価の原点が間違っている。結局、自分が生み出した期待という幻想に苦しむ結果に陥っているのだ。」
「こうした苦い経験から私が学んだのは、人の能力を自分勝手な期待値で測らないことの大切さだった。(中略)有効な方法は、期待値とは別に、いま現在の客観的でリアルな現実値を相手のスタートラインとすることです。そうして、その現実値とこちらの期待値とのギャップを、相手がどれくらい埋めたかを中心に評価をする。そうすれば、いま現在の現実値からスタートして、期待値にどれだけ近づいたかというポジティブな評価が可能になります。逆に、期待値という高いバーをはじめから目標にしていると、まだ足りないという不足分としてしか相手の能力を測れず、マイナス評価につながってしまうのです。(後略)」―秋山咲恵 著『仕事力は習慣で鍛えなさい』(サンマーク出版) より)
「そんなことできるのか?」という問いが頭をもたげました。けれど考えてみれば、教室で見ている子どもたちに対して「こんな問題もできないのか」とがっかりしたことは一度もありません。
まず毎週、予習のときに「この問題、○○はこういう反応をするかな。ここをサポートすればクリアできるかも」「ここまでは一人でできるはず!事前に声かけをしておこう」などと予想します。この「予想」に「期待」が混ざっています。実際の授業では、予想(期待)通りにならないことが当然あります。しかしそこにはがっかり感も悲壮感もないのです。「今日の〇〇にははまらなかったか」と考え、別の方法へ。変わるべきは自分です。花まるスタッフは皆、こうなのです。つまり、その子の状況に応じたベストを模索するがゆえに、花まる教室での「評価の原点」は「自分の期待値」ではなく「その子のこれまで」になり、評価がマイナスになることがないのです。
秋山さんの言葉で、自身の同僚・甥っ子・子どもたちに対しての期待値や評価の原点が異なっていたということに気づかされました。
「自分の中の、他者に対する期待のモニタリング」そして「受けた期待は、相手と状況によって使い分け」がその人の知性なのでしょう。ただ、他者からの期待のモニタリングや上手なかわし方ができない子どもたちには、いまのその子を原点に、ポジティブに認めてくれる場が複数あるといいですね。
期待値を原点にしてがっかりする、ということはゼロにはならないかもしれませんが、忘れないようにしたいのは、その人の“いま”を見ておかないと、期待値の高さにかかわらず、ポジティブな評価はできないということです。その子を「見ている・わかっている」ことがポイントなのでしょう。
相手に物足りなさやがっかりを覚えたときには、「どういう期待で、その評価は何を原点にしているのか?」と自分に問い、見つめ直すようにしようと思います。
花まる学習会 竹谷和(2021年)
*・*・*花まる教室長コラム*・*・*
それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員のみなさまにお渡ししています。