【花まるコラム】『車窓より』谷田川美冬 2025年3月

【花まるコラム】『車窓より』谷田川美冬 2025年3月

 「ママ、これ押していい?」
どんよりとした曇り空の日。教室へ向かうバスのなか、ぼんやりと窓の外を眺めていると、幼い女の子の弾むような声が聞こえてきました。だれの声だろう、と窓に反射している姿に目を向けてみると、3歳ぐらいの女の子とその子のお母さんが映っていました。
「ボタンを押すのはまだ先だよ。□□って運転手さんが言ったら押していいからね。ママがいまだよって教えるまでは待っていてね」
 女の子がわかるように優しく伝えるお母さんが素敵だな、と感じました。バス停に着くたびに、「次?」とお母さんの顔を覗き込んで確認する女の子が微笑ましく、「ボタンを押してみたいというあなたの気持ち、わかるよ!」と私は密かに頷いていました。降りるバス停は奇しくも私と同じ。いつもは降車場所のアナウンスが入るとすぐに降車ボタンを押しますが、今日はその必要がありません。「まだ?」と繰り返し問いかける楽しそうな声から、女の子のワクワクした気持ちが伝わります。まわりを見渡してみると、年配の女性が目を細めながらニコニコと女の子を眺めていて、その姿が幼いときの私の祖母と重なりました。

 「美冬ちゃん、今日も楽しい?」
公園の砂場で遊んでいると、横からニコニコ話しかけてくれる祖母。「うん! これはこうすると高いお山になるんだよ!」とさも自分がはじめて発見したかのように高い山を作る方法を語る私。祖母は「そうかそうか、すごいねぇ。どうしたらそうなるの?」と飽きずに聞き返してくれました。それが嬉しくて、泥だらけになりながら何度も繰り返し説明したことを覚えています。母が「いつも家に着くとあっという間に寝ていたよ。心身ともに充実していたのかもしれないね」と、大人になってから教えてくれました。そんな祖母との大切な思い出は、たとえ冬の冷え込む日でも胸のうちをあたためてくれます。
 数年前に祖母は認知症になってしまい、いまは施設で過ごしています。しばらくは高い頻度で会えていたのですが、コロナ禍になってからというもの、なかなか会えなくなってしまいました。最近はやっと年に2回ほど、透明なドア越しに面会できるようになったところです。触れ合おうとこちらに伸ばした手がドアにぶつかるたびに、不思議そうな顔をする祖母。その姿を見ると、ドア一つも越えられないことが悲しく、頭では健康を守るための仕方ない措置だとわかっていても、やるせない苛立ちを覚えます。そんなこちらの気持ちとは裏腹に、昔と変わらずニコニコしている祖母を見ると、毎回穏やかな気持ちに引き戻されるのです。
 施設を訪れるたびに、祖母から開口一番に「どなた?」と聞かれます。「孫の美冬だよ!」と笑顔で答えると、「美冬ちゃんね。お砂場遊びが好きなうちの子と一緒」と返してくるのが定番のやりとりです。彼女の心には、「小さい美冬ちゃん」の記憶は色褪せず残っているようです。だから私は、あの頃いつもしてもらっていたように、こう問いかけます。
「おばあちゃん、今日も楽しい?」

 そんなやりとりを思い出していると、「押していい!? 押していい!?」とワントーン高くなった声が耳に届きました。「ピンポーン」と降車を知らせるベルが車内に響きます。「やったー! 押せた!」と喜ぶ女の子。見守るお母さんに背中を押された、初めての挑戦。この瞬間が彼女の記憶に残らずとも、達成できた喜びが心に残り続けることでしょう。

 安心して挑戦できる場があることは、子どもたちの意欲や好奇心を育みます。そしてそれをあたたかく見守る大人が近くにいることで、子どもたちの「安心」につながっていると実感しています。何でも思うままにやってみればいい。たくさん挑戦して、成功も失敗もして、乗り越えてたくましい心をもってほしいです。どうかそれまでは、子どもたちを取り囲む世界が優しくあたたかいものでありますように。私も祖母のように、陽だまりのような笑顔で包み込む人でありたい。そして、バスのなかで居合わせた女の子のお母さんのように、優しい目で見守りたい。そう思いながら、二人が手をつないで歩く姿を見送り、教室へと足を運びました。

花まる学習会 谷田川美冬


*・*・*花まる教室長コラム*・*・*

それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。

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