日本への一時帰国中にどうしても行きたかった「北海道」。無事に実現させることができました。北海道に行きたかった理由は単純で、「おいしい海鮮を食べたい!」だけでした。普段インドネシアで生活している私にとっては「海鮮=日本」と思えてしまうほど、恋しいものなのです。
白米、刺身、醤油。何回食べても飽きぬおいしさに感動しました。一方で、この幸せに似た気持ちは「味」からくるものだけではないということもはっきり感じました。インドネシアで生活しているからこそ、日本食の味は私にとっておいしさだけでなく「安心」をくれるものなのです。「家庭の味」「故郷の味」「おふくろの味」。そうした言葉で表される「味」。これはおいしさだけでなく「安心」を与えてくれる味のことを指すのでしょう。
「味」は経験や記憶と結びつく。昔から食べている味で安心するのは、きっとそのときの日常、家族との時間、友達との思い出…そんな子ども時代の記憶と結びついているから。食べているもの自体の味が大事なのではなく、そこから思い出す記憶が大事。こういうことは「味」以外にもたくさんあるでしょう。
新入社員時代、私は最寄駅からバスで数十分かかるところに住んでいました。仕事に没頭し、ときには夜遅くまで事務所にいることも。もちろんもうバスはなく、1時間かけて徒歩で帰ります。その帰り道ではいつも大好きな曲を聞いていました。歌詞が最高なのです。「キレイとは傷跡がないことじゃない。傷さえ愛しいというキセキだ」という部分。仕事で失敗したときや、子どもたちとのやりとりがうまくいかなかったときに聞くと「こういう日だって、やりきればいい思い出になる」と信じられる詞でした。だからかいまでもあの曲を聞くと、少し肌寒い帰り道でがんばろうと自分を励ましていたあのときの気持ちに触れられるのです。「音」が記憶と結びついている、というのも多くの人が体験することなのではないでしょうか。
「言葉」もまた、記憶を運んでくれるものの一つでしょう。小さい頃にかけられた言葉、かけ声など、言葉を聞くと思い出とともに当時の感情に触れられます。私にとってそれは、母の「めんどうくさい」です。小学3年生のとき、節分の豆まきの宿題で「自分のよくない部分を鬼型の紙に書いて、豆をなげて退治しよう」というものがありました。自分のよくないところか…と悩んでいると、「あんたは“めんどうくさがり”でしょ。あたしと一緒だもん」と言われました。私は「お母さんと一緒」というのがうれしかったのか、いやな気持ちはまったくなく鬼型の紙に「めんどくさがりおに」と書きました。その紙をずっと自分の部屋の学習机に貼っていたのを覚えています。それからも自分ってめんどうくさがりだなぁと思う場面が何度もありましたが、そんな自分がちょっと好きだったりしました。
もちろん「めんどうくさい」というのはいい意味の言葉ではありません。ただその言葉の意味どうこうではなく「お母さんと一緒だった」「自分とお母さんの共通点なんだ」、そんな嬉しかった記憶と結びつく言葉になっていました。
味でも音楽でも、言葉でも、そのものの良し悪しだけが大事なのではないのでしょう。子ども時代の少し苦い経験だって、大きくなってその子の心を安心させ「あたたかく」してくれるものになるはずです。ときには叱る必要もあるでしょう。叱ってしまった…と反省する夜もあるかもしれません。そういう時間もふくめて、日々子どもたちと接する時間すべてが「あたたかみ」になるはずです。
子どもの頃に「お皿をさげなさい」って怒られたなぁとか、「物は使い終わったら片付ける!」と言われたなぁとか…。インドネシアにいてもよく「母」を感じます。そのたびに叱られたという事実のなかにあるあたたかいものを受け取っているように思います。子育ては、まさに「正解」のない問題。どうしたらいいかと悩むことがあるかもしれません。ただどんな時間を過ごしたとしても、家族との時間は「あたたかいもの」になる。大人になって、みんなふと気づくのでしょう。その「あたたかいもの」に触れたとき、世界のどこにいようと自分を想ってくれる人がいる、と。
花まる学習会 山岸亮太(2023年)
*・*・*花まる教室長コラム*・*・*
それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。