「Hello」「おはよう」「Xin chào」「Guten Morgen」そんな声が飛び交う朝。私は国際交流シェアハウスと呼ばれる場所で生活しています。住人の半分は外国籍のメンバーです。そして先日ハウスに新しい住人が引っ越してきました。わたしと同部屋に引っ越してきた彼はベトナム人でした。
ベトナム人の彼はもちろんベトナム語を話せるのですが、母語レベルでドイツ語も話せます。理由を聞いてみると、生まれも育ちもドイツだったのです。(両親はベトナム人だったため家ではベトナム語で生活していたそうです。)その話を聞いていたハウスメイトのオーストラリア人が彼のルーツを話してくれました。彼の母はドイツ人、そして父はイギリス人。生まれも育ちもオーストラリアなのでオーストラリア国籍ですが、彼はドイツ人とイギリス人の子。血はドイツ人とイギリス人なのにオーストラリア人として育った人。血はベトナム人なのにドイツで生まれ育った人。私には少し不思議に思えました。
いったい「〇〇人」とは何なのでしょう。オーストラリアで育ったらオーストラリア人?親がベトナム人だったらベトナム人?そもそもオーストラリアにいる白人の多くは元来その土地にいた人たちではなく大航海時代以降にやってきたイギリス人の子孫です。 島国である日本ではあまり考える機会ありませんが、よく考えると不思議ですね。 じゃあ日本人って何なのでしょうか?
外国へ行くと「日本人って真面目だよね」とか「日本人は時間をちゃんと守るよね」と言われます。そういうことが「日本人っぽい」ということでしょうか。でも「日本人っぽくない」日本人もいますよね。今回引っ越してきたベトナム人の彼は「ベトナム人っぽい」のでしょうか。生まれも育ちもドイツなのに。これは何も国籍の話だけではありません。男の子っぽいとか、高学年っぽいとか、長女っぽいとか…。周りを見れば「っぽい」で語られていることの多さに気づきます。
でも違う。日本人だとか、ベトナム人だとか、オーストラリア人だとか、男の子とか、高学年とか、長女とか、それでその人の個性も能力も何も決まらないはず。男の子だからって「男っぽく」なくていいし、高学年になったからって「高学年っぽく」なくていい。周りと比べて同じようにできなくてもいいし、「普通3年生になったらこうだよね」なんてこともない。
「空気を読む」ことを大事にする日本の社会のせいでしょうか、「普通」や「常識」、みんなと同じにできることを求められることがありますよね。その「普通」こそが「っぽい」ということ。でもその「っぽい」ことは大事じゃない。その先へどんなに行っても、きっと自分の幸せにはつながっていない。「男の子」だからって「男の子っぽく」生きることが幸せにつながるわけじゃない。「っぽい」だけを考えているといつの日か気づくはず。「自分っぽい」ことってなんだろう、と。
「自分っぽい」とはたくさんの人やものに出会い、吸収し、考え、体に刻まれていくもの。どんな人と出会うか、どんな環境に飛び込むか、そしてその経験から何を考えるか、そうやって出来上がっていくもの。
「っぽい」というカテゴリーを気にして、他人の作った基準で幸せをはかるのはもったいない。自分にとって幸せとは何か。その答えはいつでも自分の中にあるはず。人と同じじゃなくていい。人と比べる必要もない。頑張りに点数がついてしまう子ども時代に大事にしてほしいのは「自分っぽい」を大事にしてくれる大人に出会うこと。
今朝もいろいろな国の言葉が飛び交うわが家。ここはみんな違う「自分っぽい」毎日を過ごしている。何とも心地のいいものです。
花まる学習会 山岸亮太(2021年)
*・*・*花まる教室長コラム*・*・*
それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員のみなさまにお渡ししています。