私の祖父母は新潟県阿賀町というところに住んでいます。まわりは田んぼに囲まれていて、車がないと生活できないような地域ですが、小学生の頃は毎年夏休みと冬休みに遊びに行っていました。
小学3年生の秋、学校を休んで父と2人で新潟へ行ったことがあります。どんな理由でわざわざ学校を休んで行ったのかは忘れてしまいましたが、夏と冬の見慣れた景色とは違い、迫りくる山々が紅葉し、祖父母の畑に植わっている野菜の種類が変わり、なんだか知らない場所に来たような気がしたことを覚えています。
景色が違うな、とだけ思っていた私に、父が赤い木の実を指さして言いました。
「あれ、なんて名前か知ってるか?」
「知らなーい」
「ナナカマドっていうんだ」
「へー」
会話としては、それで終了したように記憶しています。何とも、興味のなさそうな返事。「それでそれで?」「私たちの住んでいるところにはあるのかな?」なんて深く掘り下げることもなく、父としては肩透かしを食らったような気持ちだったのではないかと思います。
気のない返事をしたにもかかわらず、私は落ちていたナナカマドの実がついた枝を拾い、後日学校の先生に見せたのでした。いまでもそのときのことを鮮明に覚えていて、秋に赤い木の実を見かけると、新潟で見たナナカマドを思い出します。
最近、鳥のさえずりを聞いたり、道端に生えている植物を見たりしたときに、パッと名前が出てくる自分に気がつきました。「なんで知っているの?」と聞かれるたびに思い出すのは、図鑑や本よりも、父母との会話や、祖父母の畑でした。勉強熱心なほうではなかったので、「もっと調べてみたら?」と渡された分厚い辞書を開いたことはないのですが、何気ない会話は覚えているものですね。
気のない返事は授業でも聞くことがあります。 先日、精読教材「さくら」で物語を読んだときのこと。「吾妻コート」「カナリヤ」など、出てくる言葉が子どもたちにとって馴染みのないものばかりでした。いつもなら読んで本を閉じ、物語についてのクイズを出すのですが、知らない言葉ばかりでイメージができていないだろうと思い、「質問タイム」に変更しました。
「いま読んだお話のなかで、知らない言葉があったら聞いてみよう!」
ここで手があがるのは数人。しかし、 解説したり、画像を見せたりするとじっと食い入るように見ている子ばかり。
「いまの、知らなかった人」
と聞くと、ほぼほぼ全員の手があがりました。
「もっといろいろ聞いてもいいんだよ」
「うーん、いいや」
「知っているものばかりだった?」
「そうじゃないけどー、(知らない言葉は)いっぱいあったけど」
「そっか。先生がみんな知らないかな、と思ったものを見せるね」
聞いていいよ、と言っても、手があがらない子はあがりません。興味がないわけではなく、知ってもその感動を言葉にすることがまだまだ難しいのかもしれません。
子どもたちにとって、まだまだ知らないものが多いこの世界。自分から聞くにも、調べるにも、ほんの少しの「知らない」では行動に起こでないのかもしれません。
それでも、知らないだろうと思い解説した言葉や、画像を見せたものに、子どもたちが興味をひかれている様子を見ていると、頭の片隅に新しい知識を増やしたことが伝わってきます。そのたびに、この時間があってよかったと思うのです。
いつもより家族で過ごす時間が増える夏休み。お出かけをしたり、一緒に歩いたりする時間も増えるかと思います。そのなかで、動物や植物、星や天気などを見たときに通り過ぎず、一緒に調べたり話したりすることで、お子さまが大人になったときに「そういえば」と思い出すかもしれません。「ふーん」と気のない返事でも、頭の片隅に残るものをこの夏の思い出と一緒に増やすことでしょう。
花まる学習会 水野青空(2023年)
*・*・*花まる教室長コラム*・*・*
それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。