土曜日の夕方、父の送迎で向かう水泳教室が習いごとのなかで一番好きでした。水泳教室には、兄の影響で幼稚園の年長から通い始めました。体を動かすことが好きだった私に水泳はぴったりだったようで、小学3年生の秋には水泳教室の最上級クラスに上がることができました。クラスのなかで一番幼く体も小さかった私は、プールの真ん中の最も深い場所では足をつけて歩くことができず、水の中をジャンプしながら進んでいました。同じ級のお兄さんやお姉さん、コーチに気にかけてもらえる水泳教室の環境が心地良く感じていたことを覚えています。
水泳教室では各級で合格基準が設けられていました。その合格基準をクリアすると次の級に上がることができます。最上級クラスを合格基準は2つあり、「距離」か「速さ」のどちらかの項目で基準をクリアする必要がありました。「距離」では最上級クラスで泳いだ距離の合計が基準を超えること。「速さ」では、50mクロールのタイムトライアルで基準タイムよりはやく泳ぐことでクリアとなります。「距離」の項目は水泳教室に来てさえいればクリアできるものだったので「速さ」をクリアすることが自分の卒業だと決めたのですが、なかなか合格基準タイムを出すことはできませんでした。
テストを受けるのは25mプール。スタート後、ターンで折り返し、また戻ってくるコースです。得意のスタートで行きの25mはスピードが出ていい調子です。しかし問題は折り返したあとの半分でした。スピードは落ち、タイムは一向に基準に届きません。ゴールした私に「惜しかったね! あとすこし!」と声をかけてくれるお兄さんお姉さんたち。なかなか合格できず3度目のタイムトライアルを終えた頃から、私は合格できない自分を恥ずかしいと感じるようになっていました。よーいどん、と壁を蹴って泳ぎはじめてからゴールするまで、十数名の同じ級のお兄さんお姉さんが私を見ています。泳いでいる私、タイムに届かず落ち込む私の姿さえも見られているのです。
その次の週、4度目のタイムトライアルの時間が来ました。よーいどん。25mを過ぎ、どんどん体が重く苦しくなってきた頃「もう基準タイムに間に合わないんじゃないか」「合格タイムに届かないくらいだったら、途中で終わったほうがいいかも」「…ここで力を抜いてみたらどうなるかな」という諦めに近い思いが頭をよぎりました。
そう考えた瞬間。水の中に引っ張られたような気がして泳げなくなり、溺れかけたところを引き上げられました。座り込みながら思ったのは「ついにやってしまった」という後悔に似た思い。と同時に少しホッとしている自分もいました。
惜しかったねって励まされなくてよかった。かっこ悪い自分を見られなくてよかった。
その日のことは、母にも父にも言えませんでした。諦めていいかなと思ったことを知られたら何を言われるか、怒られるんじゃないか、呆れられるんじゃないかと不安だったからです。手を抜くことは想像していたより簡単でした。「諦めてもいいかな」と思うことはもっと簡単でした。
朝起きなくてもいいかな。宿題ができていないけれど「家に忘れた」って言えばいいかな。それがよくないことだと、みんなわかっています。でもその“弱さ”に負けるときがある。弱さは誰もがもっていて「自分の弱さとどうかかわっていくか」を身につけていくのが小学生、特に高学年の時期ではないかと思います。「恥ずかしさ」「くやしさ」「怖さ」いろいろな感情と向き合う子どもたち。子どもたちが感情と向き合い壁を越え突破していくときに手をとって導くのではなく、考える姿を認め、隣でともに悩み考える大人でありたいと思っています。
その後、私は6回目のタイムトライアルで合格することができました。自分の弱さと向き合い葛藤した時間があったから、覚悟を決めて泳ぐことができたのだと思います。
いまでもあのときの息苦しさを思い出します。自分はあんなこともできてしまう人間なんだ。だから踏ん張らなくてはいけない、と自分を追い込みます。そして「でも、そのあとは踏ん張って合格できた。だから自分は大丈夫」そう励ますのです。
花まる学習会 有川裕香子(2023年)
*・*・*花まる教室長コラム*・*・*
それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。