「いままでもこれからもお父さんは、ずっとずっと一番の味方だよ。自分を信じて自分の目指す道を進んでいいんだよ」
7月で24歳になる娘に昨日送ったメッセージです。
2000年7月21日に長女は生まれました。誕生の瞬間、私は千葉にあるマザー牧場にお泊まり保育で来ている100人の園児と遊んでいました。宿に戻ると、見たこともない数の着信が携帯に残っており、「生まれたんだな」と携帯を抱きしめたのをいまでも思い出します。
その日、車で千葉の病院に行き、1分だけ抱っこさせてもらい、初めてのわが子の重みを感じることができました。寝返りをしたのを見て歓喜し、ハイハイしたのを見て涙し、世の中にこんなに愛おしいものがあることを知りました。幼稚園に入園する前に、わが子のことを考えて家族の掟を作りました。
「嘘はつかない」「人のものをとらない」「自分がされていやなことはしない」「食べ物でけんかをしない、心が貧しくなるから」「ことばを大事にする」「どんなことがあっても生きろ」
何かあるたびに家族の掟をみんなで考えて、ノートに書く習慣ができたのも、この頃からです。
年長から花まる学習会にも通い、伸び伸び育っていましたが、あるときディズニーランドのダンサーに魅了され、「将来はプロのダンサーになる。ダンスを習わせてください」と言うので、家の近くのダンススクールに通わせました。その夢は小学生になっても続きます。
高学年になり、クラスでいじめられている子をかばい、自分もいじめられるようになった時期がありました。「学校に行きたくない」という娘の言葉から、何かあったことを察知し、学校に行かない日は私も仕事を休んで、時間割通りの生活を一緒にしました。しばらくして、いじめられていることを私に教えてくれた娘に、「いじめている子の名前を紙に書いてお父さんにちょうだい」とお願いしました。10名ほど書かれた生徒の名前を見て、「大切な娘をどうしていじめるんだ」「娘は悪いことをしていないじゃないか」という想いがこみあげてきました。娘が学校に行っている間、いじめられているかもしれないと思うと何もしてあげられない無力感から自然と涙が出ることもありました。数か月して徐々に元気になり、学校に行くのをいやがらなくなったので聞いてみると「いじめていた子とたくさん話をして、逆に仲良くなったから大丈夫」と笑顔で言われたときは、心の重みが取れたように感じました。
いじめた子の名前が書かれている紙は、いまでも私のお守りとしてずっと持っています。
友人も増え、中学生になりました。中等部にはダンス部がないのですが、高等部にはありました。入部をあきらめるのかなと思っていたら、毎日高校生のダンス部を見学しにいき、離れたところで一緒に踊っていたそうです。その熱意に押されて、顧問の先生が中学2年生からの入部を認めてくれました。高校生になっても都内のダンス教室を自分で見つけて通い、年長からの夢を真剣に追い続けていました。高校生では全国大会にも出場しました。高校卒業後の進路も、ダンスを踊るだけでなく裏方の仕事も知っておく必要があるということで、照明などを学ぶ専門学校を選びます。そしてもう少しで夢に手が届くというタイミングで、新型コロナウイルス感染症が流行しはじめました。自宅で自粛している間も鏡の前でずっと踊り続けた長女。「コロナだから仕方ない」「コロナだから……」という言い訳を一度もせずに、ただひたむきに夢を追い続けて自分を信じて進んでいる娘から「できない理由を探すのではなくできることをやる」ということを教わりました。
コロナが収束する頃、卒業した高校のダンス部のコーチの依頼が娘にきました。ダンス教室に通いながら、ダンス関連のアルバイト、高校のダンス部のコーチをしている娘から、先日、相談がありました。
「私、このままでいいのかな。大丈夫かな」というLINEのメッセージ。
いつも明るくふるまっている娘はずっと葛藤していたんだと気がつきました。
重松清さんの『とんび』という本のなかで「親が子どもを甘やかさんかったら、誰が甘やかすんな、アホ」という言葉がある。私はこの言葉が好きだ。
生まれたときのまだ目が開いていない娘を見て、「絶対に幸せに育てる」「誰がなんと言おうと自分の道を進ませる」「彼氏ができたときに呼ばれてかわいい名前にしよう」と決めたことを改めて思い出し、返信しました。
送ったメッセージに、「ありがとう。お父さんの子でよかった。夢をあきらめないで頑張るね。今度、彼氏を家に連れていくね」
と返信。
「娘の彼氏が家にくる」の話はまたの機会に。
花まる学習会 箕浦健治