【花まるコラム】『正しさよりも』 出井真理

【花まるコラム】『正しさよりも』 出井真理

 私の教室では、みんなで一斉に作文に向き合う時間を設けています。子どもたちに伝えていることはいろいろとありますが、そのなかでも私が大切にしているのは“書きたいことを書きたいように書くこと”です。
 作文というと、いつ誰がどこで何をどうした、とわかりやすく書くとか、起承転結をわかりやすく書くとか、そういうことを私は学校で習ったような気がします。学校の先生が言うことも確かに大切なポイントではあるのですが、それは高学年以降、成長とともに徐々にできるようになれば良いものと私は考えています。

 私が小学生のときに書いた作文を母が大切に取っておいてくれているのですが、大人になって読み返してみると、どれも“きちんとしている”ものばかりでした。なぜならそれらの作文は、私が書いた作文ではなく、当時両親が添削に添削を重ねて完成した“作られた”作文だったからです。
 当時の私にとって作文とは、“きれいな文を決められたように書くもの”でした。実際、学校の先生は私が書いた(両親が添削をしてくれた)作文に、「よく書けているね」とコメントをくれていましたし、それによって私はこれが作文の正しい書き方なのだと思っていました。しかし、書くたびに添削に添削を重ねられ続けてきた私は、文を書くことがまったく好きではありませんでした。何を書くのが正解なのか、どんなことを書いたらいいのか、よく書けているねとコメントをもらうにはどうしたらいいのかを考えてしまい、特に読書感想文はできればやりたくない宿題でした。

 花まるで書く作文の時間には、私のような窮屈な思いを子どもたちにはさせたくないと考えています。“書きたいことを書きたいように書く”ということは、誰かに教わって書くのではなく、自分の心に問いかけて出てきたありのままの言葉を書くことです。子どもたちにはよく、
「先生たちはみんなの頭や心のなかを覗くことができないから、みんなが日々何を思ってどんなふうに過ごしているのか知りたいんだ。どう思った? どんなふうだった?と自分の心に問いかけながら書いてね」
と話します。たとえば、いざ作文を書くというときに
「何が好きなの?」『いぬ』「どこが好きなの?」『かわいいところ』「じゃあそれを書いてみよう」
という会話をして、その子が
「いぬがすきです。かわいいからです」
と書いたとします。果たしてそれはその子の作文なのでしょうか? 書く直前に誰かの言葉で上書きされてできあがった作文は、多かれ少なかれ“作られた”部分が混じり、その子らしさが薄くなってしまっているように私は感じてしまいます。そのため、教室にいる講師には、作文を書く時間だけは極力子どもたちに話しかけないでほしいと伝えています。純度100%の、子どもたちのありのままの言葉を知りたいからです(もちろん、子どもたちから質問があれば答えます)。
 子どもたちは静かに作文を書き始め、書き終わるとその作文を受け取った講師と会話をします。そのときに、講師はその作文に書ききれなかった子どもたちの思いをありったけ聞くのです。自分の作品を受け取った人との会話を楽しむことで、「書いてよかった」「楽しそうに読んでくれてうれしかった」と感じ、さらに「作文って書きたいように書いていいんだ」「書くってこんなに楽しいんだ」と感じてほしいのです。

 先日1年生が書いた作文には、「わたしはいぬがすきです。よしよしできるしさんぽができるからです」と書かれていました。いまの時期にしか書けないとっておきの作文だと思いませんか? 大人になってから書こうと思っても、このような言葉選びはなかなかできません。この作文には、その子の“いま”が存分に表れていると感じます。
 字の間違いや助詞の間違いなど、さまざまなミスもあるかと思いますが、学年が低いほど、いわゆる“かしこまった添削”はしすぎないようにしています。テクニックの部分はあとからいくらでもついてくるからです。低学年のうちは“正しさ”よりも、その子の“いま”が表れているか。いまその瞬間にしか書けないかけがえのない大切な作品が“作られた”ものにならないように、子どもたちの“いま”を大切にします。

花まる学習会 出井真理(2022年)


*・*・*花まる教室長コラム*・*・*

それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。

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