先日の年長の思考実験では、7つの異なる形のブロックを使って3×3×3の立方体を作りました。難問ゆえにヒントを出しながら完成まで導くと、子どもたちは決まってこう言います。「先生、テープで貼っていい?」そのままだと崩れるので、セロテープで貼って巨大サイコロを作るのです。そして作るやいなや、上に横にとそのサイコロを投げる。本物のサイコロに見立て、数字を書いて転がして遊ぶ。また、ある子はそれを頭に載せ、「1,2…」と数を数える。それぞれが思い思いに遊び、その時間を満喫する。そこに、何かを得るためにという考えはありません。立方体を作るために試行錯誤している間も楽しい時間にすると、意気込む私にとっては何か負けた気さえします。作っているときよりも作り終えたあとのほうが躍動しているのではないか、そう思うほど子どもたちは夢中になるのです。
話は変わって、年末年始の出来事です。私は数年ぶりに実家で家族と過ごしました。帰省するといつも変わらないのは、父と母が至れり尽くせりで私をもてなしてくれることです。今年は寒さに備え「湯たんぽ」を買ってくれていました。「湯たんぽ?一度も使ったことないよ。必要かな?」という気持ちもありましたが、ぐっと飲みこみ、心に留めておきました。父もしくは母が毎晩湯たんぽにお湯を入れ、布団のなかに入れてくれるのです。しかし、夜布団に入ると、暑がりゆえ父の想いなんてお構いなしとそれをキックして布団の外へ追い出す。すると翌朝、父が私の寝床を見て「風邪ひくぞ」と言いながら湯たんぽを布団のなかに戻し、暑苦しく剥いだ毛布と布団をかけなおしてくれるのです。「暑いからかけないで」と思いつつも「これも父の優しさなのだ」と今年は半開きの目で父の姿を見ていました。そして、隣の部屋で父と母がごはんを食べながら、とりとめのない話をしているのをひそかに聞いているのでした。大みそかの朝、わが家の大掃除が始まりました。「一緒にやるぞ!」という父の声に気が進まないところもありましたが、換気扇を外して外で水洗いをしました。すると父が急に「ここは頼んだ!俺はお堂の掃除に行ってくるから。よろしく」と言い、出かけていきました。ひとりで1、2時間ほど掃除をしていると、いいにおいがしてきました。「ごはんできたよ!」という母の声にいち早く反応したのは、父でした。いいタイミングで帰ってきた父が「ごはんだごはんだ」と嬉しそうにしていました。お昼ごはんを食べ終えるとまた大掃除の続き。そして、夕ごはん。普段、仕事をしている毎日とはまったく違うほどゆっくり流れる時間。今日はごはんを三食食べ、大掃除をし、テレビを見てゆっくりしただけ。そこで私は思いました。「あーなんて生産性のない日だ」ただ同時に生産性ばかりを気にしている自分がいることにも気づいたのです。不思議なことに、確かに生産性はなかったけれど何か幸せだったなと感じたのです。父と母は、私のように生産性なんてまったく考えていないことは行動を見れば明らか。しかし、穏やかな表情をしていたのがとても印象的でした。そして思ったのです。こういう幸せのあり方もあるのだなと。
「何か特別なものを持っているから幸せ」ではなく「何か特別な出来事があるから幸せ」というわけではなく、のんびり暮らしてごはんを食べ、一日何かをし、床につく幸せ。「当たり前の日常を満喫する生き方」というのも一つ幸せのあり方なのだと思わされました。今年はその当たり前が当たり前ではないことを感じることが多かったのではないでしょうか。思いを切り替え、あることがありがたい、すなわち「ありがとう」と思うと感謝の気持ちが湧き、心が穏やかになります。そして、子どもたちを見ていると、私も暗くなるまで無邪気に缶蹴りをしていた子どものころを思い出すのです。損得など一切度外視で「いまあるもの」に感謝し、思い切り楽しむ。知恵で動くのではなく、心のままに動く。ありのままを喜ぶ。満喫する。最近、子どもたちを見ているとそういう幸せのあり方を教えてくれているように思えてなりません。
花まる学習会 坂口徹(2021年)
*・*・*花まる教室長コラム*・*・*
それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。