サマースクール「高濱先生と行く修学旅行 無人島編」に参加しました。いままでも開拓のために何度か訪れてはいましたが、やはり子どもたちと島で過ごす時間は特別なものです。今回は、16人の6年生とともに、3泊4日を過ごしてきました。
島では、一日目に火の熾し方や魚の釣り方など、生活に必要な技術のレクチャーを一通りおこなうのですが、ここまでは普通のキャンプとそう変わりません。本番は二日目からで、ここからサバイバルが始まります。お米以外の食料は用意されていないため、自分で食べ物を見つけない限り、食事は「醤油メシ」になるというルールです。私は事前の開拓体験からほぼ醤油メシになると予想していたのですが、地元の方の遊漁船で海へ出た子どもたちは、何と鯛を何匹も釣り上げて帰ってきました。新鮮な鯛の刺身や鯛めし、あら汁でお腹を満たす子どもたちは、私の心配をよそに何ともたくましい姿を見せてくれました。
そんな子どもたちが海で遊ぶのを見ていて、気づいたことがあります。それは、自分が無意識のうちに海へ入るのを避けている、ということでした。子どもたちが何のためらいもなく海へ入っていく一方で、自分はいますぐ海に入れる格好をしているのに「うーん、海に入るとしばらく濡れたままになるな、どうしようかな」という計算をしていることに気づいたのです。その瞬間、波打ち際が、子どものいる世界と私のいる世界を隔てる線のように見えました。
そして不意になぜか「夏があと何回来るか?」という言葉を思い出しました。昔、北海道を旅したときにキャンプ地で居合わせた老齢のアウトドアマンにそう聞かれたことがあります。「君にはあと何回夏が来るだろうね?私にはあと10回くらいかもしれない」。 年ではなく回、という表現が強く印象に残っています。10年生きても夏が来るのはたった10回という事実は、当時の私を少なからずゾッとさせました。夏を楽しむための時間は、みかけの寿命よりも短い。「回」という表現には、そういう意味が込められていたように思います。だとすれば、子どもたちと一緒に過ごせる夏は、さらに少ないはずです。
そのようなあれこれが去来して、私は海に入りました。別に水かけ遊びをするためだとか、一緒に泳ぐためではなく、ただいまは子どもと同じ世界にいようと思ったからです。そしておそらく、高濱もそうした想いがどこかにあるのではないか、とそのとき思い至りました。
高濱は、島で終始童心に帰ったように子どもたちと遊び尽くしていました。しばらく姿が見えないと思ったら、遠くの浜へ探検に行っていたり、海に魚の群れを見つけた途端、「行くぞ!」と自転車に乗るかのような気軽さでいきなり船を出して沖へ釣りに出たりしていました。行程表にあってもなくても、そのときやりたいと思ったことをすぐにやるのです。還暦を過ぎたとは思えないバイタリティですが、高濱を動かす力の核心は、体力というよりも、子どもの世界に行くことのかけがえのなさを知っていることなのではないかと思います。そんなことを感じた、無人島の修学旅行でした。
花まる学習会 橋本一馬(2022年)
*・*・*花まる教室長コラム*・*・*
それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。