先日、授業をしていると外に大きな虹がかかっていました。その虹は、くっきりと空に放物線を描き、二重にかかっています。少しだけ授業を中断して、子どもたちと一緒に見ることにしました。すると、ある子が「これ、お父さんとお母さんにも見せたいなぁ」と言いました。授業後には、子どもたちがおうちの人のもとへ駆け寄り、「今日ね、虹が出たんだよ、見た?」などと話していました。子どもたちの言葉に耳を傾けて、「うんうん」と聞いている保護者の方もいれば、「え~!そうなの!」といった具合に、子どもたちと同じように驚き、同じように喜んでいる方もいました。なんともほほえましい光景で、「同じ気持ちを分かち合う」姿に心が温かくなりました。
教室では、子どもたちが「先生、あのね…」と学校やおうちでのことを話してくれます。どの会話も日常のほほえましいものばかりで、聞いている私も心がほっこりとします。
私には、この職業に就いて間もない頃の苦い思い出があります。当時の私は、子どもたちのこうした話にすべて「それはね、こうするべきだと思うよ」などと結論を出してこたえていました。すると翌週以降、子どもたちは私にそういった話をしてこなくなりました。私ではなく、ほかの講師のところに行って「先生、あのね…」と話すようになったのです。それを聞いた講師は「そんなことがあったのね」など、子どもたちの感情に寄り添いながら聞いていました。その後もその先生の周りには多くの子どもたちが集まって「先生、あのね…」と話しかけていました。
ある日の公園での出来事です。公園で遊んでいる小さな男の子がいました。元気いっぱいに走り回っていましたが、突然、転んでしまいました。大粒の涙を流しながら、お母さんのもとへ行く男の子。お母さんは男の子の隣にしゃがみ込み、たった一言「痛かったね~」と言いました。それを聞いた男の子はすぐに泣き止み、また笑顔で走り始めました。
こうした様子を見て、あることに気がつきました。それは、子どもたちは生まれながらに、嬉しさ、悲しさなどに、自分のことのように寄り添ってくれる人がそばにいるということです。「走っているから転ぶのよ」ではなく、「痛かったね」と心に寄り添う言葉をかけてもらえたとき、子どもたちはその言葉を「愛情」だと感じるのでしょう。自分が「きれい」「おもしろい」など感じたときに「誰かに伝えたい」と思う、この「誰か」の正体。それは、これまで自分の気持ちに寄り添ってくれた人、つまりは愛情をくれた人なのです。自分の気持ちに共感してくれる人だからこそ、同じようにきれいな虹を見て、「きれいだね」と言い合える。子どもたちが「お父さん、お母さんにも見せたいな」と思う気持ちは、たっぷりの愛情を注がれてきた証拠なのだと感じました。
先日、ラジオを聞いているとこんな歌詞の歌が流れてきました。
嬉しいことがあったときに 誰かに言いたくなるのは 自分よりも喜んでくれる人に育ててもらったからなんだろうな
子どもたちが思い浮かべる「伝えたくなる人」。それは紛れもなく、子どもたちにたっぷりの愛情を注いでくれる人のことなのです。
そんなことを考えながら、子どもたちと虹を眺め、写真を撮りました。授業後、母と妻に虹の写真を送りました。すると、「きれいだね」との返信。そのたった一言に、いつもより嬉しくなった帰り道でした。大人になっても、こうした「気持ちを分かち合うことで感じる愛情」は続くものでもあり、それでこそ心も満たされていくのだなと実感する雨上がりの日でした。
花まる学習会 小川凌太(2021年)
*・*・*花まる教室長コラム*・*・*
それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。