夕暮れが好きで、帰宅時間がその時刻に重なると少し遠回りして川辺を歩いて帰ります。晴れの日も、雨の日も、曇りの日も。夕暮れの景色は一日として同じものはありませんが、いつでもかつてどこかで見たような懐かしい気持ちにさせてくれます。
川辺は本当に静かで、行き交う人の影もまばらです。徐々にあたりは暗くなり、すれちがう人の顔が見えなくなると、この時間を「誰そ彼(たそかれ)」と名付けた昔の人々の感覚がよくわかります。
しばらく歩いていると、土手から川面を眺める親子の姿が見えました。
「こうもりさん、こっち来てーって追いかけっこしてる」
三歳くらいの女の子でしょうか。側に立つ若いお父さんに話していました。彼女の言う通り、数匹のこうもりが不規則な線を描きながら追いかけ合うように飛び交っていました。
「鳥さんはもうおねんねしてるからね」
お父さんは答えました。
「鳥さんはもうおねんねしてる
こうもりさんはおねんねしてない」
女の子はお父さんの言葉を受けて、繰り返しました。そして続けてこう言ったのです。
「わたしたちもおねんねしてない」
なんてことのない会話でした。しかし、どこか詩的で美しい空気が漂っていました。特に最後の女の子の言葉は、温かい印象を胸に残します。大人の視点に立てば、自分たちが起きていることは自明なのだから、このようなことを言う必要はありません。けれど幼い子どもたちと接していると、このような機会はたくさんありますし、このような場に接すると、不思議と心が満たされていきます。
教室でも似たような気持ちになることがあります。それは、子どもたちが言う「先生、見てて!」というセリフを聞くときです。名前を書くときでも、紙飛行機を飛ばすときでも、絵の具を混ぜるときでも、子どもたちは毎回この言葉を発します。矢継ぎ早に「先生、見てて!」がいろいろな方向から来るので、てんてこ舞いになりながらも、子どもたちの期待に応えるべく必死で見ます。そして、子どもたちは私の顔を見てきます。「見ていたよ」という思いを込めてニコリと微笑むと、満足気な顔をしてまた次の「先生、見てて!」に移ります。きっとご家庭でもこのようなやり取りが日々繰り返されているのでしょう。
このようなやり取りは、コミュニケーションの重要な側面を私たちに教えてくれます。土手で偶然会った親子の会話は、思ったことを口にした女の子の言葉をお父さんがただ「聞く」というものでした。教室での「先生、見てて!」という子どもたちの期待も、ただ「見る」ことでした。それだけで気持ちは満たされているようです。受け止めただけの私たちの胸も、同じような思いで満たされていきます。
意味のある情報のやり取りがあったとは言い難いのです。しかし、このような意味のないやり取りが許される関係はなかなか築けるものではありません。そこにあるのはおそらく「安心」です。「安心」できる関係のなかで「見てもらうこと」「聞いてもらうこと」はそれだけで、人の心を満たしてくれるのでしょう。この「安心」という心の基盤となる経験を、幼いうちにたくさん味わっておくことが大切なのかもしれません。情報の伝達だけがコミュニケーションではないのです。
子どもの頃、夕暮れは遊び時間の終わりの合図でした。「まだ遊びたい」という気持ちはもちろんあったのですが、その日の冒険はそこまでという了解がありました。みんな安心できる家に帰っていきました。安心できる場があったから、また次の日も冒険をすることができたのです。
夕暮れに感じる懐かしさは、その頃の安心の名残なのかもしれません。私は夕暮れを見ると少年時代を思い出します。そして、それは私に限ったことではないのでしょう。夕暮れの川辺を歩く大人は、年代にかかわらず、誰もが子ども時代を思い起こし、懐かしんでいるように見えます。
花まる学習会 山崎隆(2021年)
*・*・*花まる教室長コラム*・*・*
それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。