「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた。」あまりに有名な梶井基次郎の『檸檬』の書き出しです。
「えたいの知れない」焦りや不安。理由もわからずモヤモヤすることは、大人以上に子どもが感じていることかもしれません。赤い箱から青い箱へ、オタマジャクシからカエルへ、心も体も子どもから大人へと成長する時期に通る道の一つです。
あれは確か、彼が4年生の頃だったと思います。元々口数の少ない、感情を表に出さない、周りからの信頼の厚い子でした。学校や花まるの宿題や野球、いろいろと溜まっていたのでしょう。初めて私に泣きながら歯向かい、感情をぶつけてきました。普段から優しくて自分が我慢すればいいと飲み込んでしまう子だったので、それが溜まりに溜まって爆発したのだと思います。きっかけは宿題が大変だとか作文が書けないとか、そんな些細なことだったと思います。
「始終私の心を圧えつけていた不吉な塊がそれ(檸檬)を握った瞬間からいくらか弛んで来たとみえて、私は街の上で非常に幸福であった。あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる―あるいは不審なことが、逆説的なほんとうであった。それにしても心というやつはなんという不可思議なやつだろう。」
檸檬を買うという小さなことで、どうにもできなかった憂鬱が消えた不思議さ、自分の心情の変化が自分でも不可解だということを綴っています。『檸檬』がいまでも人気なのは、そういったモヤモヤを抱える人の気持ちを代弁し、共感を得ているところにあると推測します。
もう一つ、芥川龍之介の『蜜柑』という作品があります。
厚い雲が広がった薄暗い景色と自分の荒んだ心情を重ね、疲労と倦怠感の中列車に座っていると、一人の少女が駆け込んできます。いかにも田舎者といったみすぼらしい風貌に嫌悪感を抱く主人公。列車がトンネルの中に入るとなぜか必死に窓を開けようとする少女。悪戦苦闘の末、窓が開くと、どす黒い煙が車内に入りこみます。少女へのいらだちが抑えきれず叱りつけようとしますが、トンネルを抜けたその瞬間、外に小さな男の子たちが見え、少女は彼ら目がけて持っていた蜜柑を放るのです。主人公は、少女がこれから奉公先へ向かうであろうこと、見送りにきた小さな弟たちに隠し持っていた大事な蜜柑を分け与えたことを悟り、先ほどまで抱いていた陰鬱な荒んだ気持ちを忘れ「得体の知れない朗らかな気持ち」が湧き上がってくるのを感じるのです。
『檸檬』も『蜜柑』も、その果物が爽やかな美しい象徴として登場し、モヤモヤの出口を見出す瞬間を美しく切り取った作品です。モヤモヤしたものは、自分ではどうしようもなくても、ふとした些細なきっかけで抜けるときがくる、というメッセージとも受け取れます。
きっとあのとき、私は彼の檸檬になれたのだと思います。
あのあと彼は、スッキリと晴れ渡った顔をし、6年生まで在籍して卒業しました。中学でも野球部キャプテンを任せられる人望の厚さ。我慢して溜め込みすぎる性格を知っているがゆえに心配もありますが、それがきっと彼らしい生き方。どんなことがあっても乗り越えられると確信しています。
私が、今いるみんなの檸檬や蜜柑になれるかどうかはわかりません。でも、一つ伝えたいのは、そのモヤモヤに答えはなくても、必ずゴールはある、ということ。そして、そのきっかけはどこに潜んでいるかわからないから焦る必要はない、ということです。いまもし苦しんでいるのなら、そう伝えたい。
また、「蜜柑」の主人公(芥川龍之介本人だと言われています)がそうであるように、汚い部分があるのが人間で、聖人である必要はないということも、救いのある考え方かもしれません。個人的には、みんなにいい顔なんてする必要はない、ただ、自分を信じてくれる人だけはどんなことがあっても裏切るな、と伝えたい。
少しでもみんなの檸檬や蜜柑になれるように、とりあえず柑橘系の香水でも探そうかと思います(笑)。モヤモヤがいつか強さと優しさに変わるときがくるから、安心してここで葛藤してね。
花まる学習会 水口加奈(花まるだより2022年2月号掲載)
*・*・*花まる教室長コラム*・*・*
それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。