アウト・ドア。それは、家の外ではなく、安泰の外。コンフォートゾーンの内側で冒険が眠りつくとき、ドアは現れる。しかし、思い切ってドアの外に踏み出せば、そこにはきっと人生を変えてしまうような「何か」———「すてきなサムシング」が待っている。これは、職人がアウトドアで見つけたサムシングのレポートである。
熊の被害が増えている。山の中はもちろん、住宅地や市街地でも被害が出はじめた。その原因についてさまざまな人がさまざまなことを言うが、本当のところはわからない。わからないが、私にとって本当の話がひとつある。青森のマタギから聞いた話だ。
2年ほど前のことだが、当時参加していたキャンプスクールの最終課題(任意の場所で野営し、その体験レポートを提出する)をクリアするために、青森の白神山地へ行った。白神山地は縄文時代から自然のまま残されたブナの原生林で、世界自然遺産にも登録されている。届け出なしで入れるエリアもあるのだが、植物の採取や焚火が禁止されていて、個人で安易にキャンプをすることはできない。そこで、マタギのガイドについて山を歩き、野営する計画を立てた。道なき道を歩きながらさまざまな話を聞いたのだが、なかでも印象に残っているのが、マタギと熊の話だ。
案内をしてくれたのは、マタギガイドの小池さん。入山する前に「熊の対策はどうしているのですか」と、おそるおそる聞いてみた。当時から青森県内の熊の出没件数は過去最多を更新して急増し、年間1000件を超えるようになっていたからである。人間に近い場所ですらそうなのだから、ましてこれから歩く原生林の中では熊に遭遇しないほうがおかしい。そんな不安をよそに、小池さんから返ってきた答えは耳を疑うものだった。「何もしません」。私の腰に下がっていた熊鈴が鳴りやむ。沈黙が降りた。
もしかしてこれは一流のマタギジョークなのではと思ったが、「なーんちゃって」と言ってくれる気配がない。マジだ。マジか。「じゃ、じゃあ熊が出たらどうするんですか」と聞くと、「熊に襲われたときはあきらめます」と言う。夢? 夢なの? と半ば現実感を失いながらさらに詳しく聞いていくと、これにはマタギの「あり方」とでも言うべきものが深くかかわっていることがわかった。
白神のマタギは熊対策をしない。熊スプレーや爆竹、熊鈴すら持たずにいつも山に入るとのことである。「もしものときはあきらめる」のが基本姿勢で、本当に身内にもそう教えているそうだ。冗談に聞こえるかもしれないが、彼らはいたって自然にそれを受け入れているのだと言う。そもそも、マタギはずっと熊を授かって(熊を仕留めることを「授かる」と言う)きたので、熊に自分の命を取られても文句は言えない。だからあくまでも生き物として対等に熊に接するべきだと考えているとのこと。それでも、熊に襲われて亡くなったマタギは見聞きする範囲で何十年もいないそうだ。しかし、これには種明かしというか、きちんとした背景がある。
白神ではマタギが熊を撃ってきた長い歴史がある。そのため、熊に「人間は怖い」というイメージが植え付けられていて、言わばその歴史が人間を守ってきたのだ。マタギが何世代にもわたって熊を仕留め続けてきたからこそ、熊にも親から子へ人間から逃げる反応が継承されているのだろう。逆に言えば、熊撃ちの伝統が廃れた地域では、こうした人間への恐れが期待できなくなりつつあるということだ。現にそれは各地で顕在化しはじめている。長い時間をかけてマタギが築いてきた熊と人間の関係が、白神の安全対策の正体だった。そのマタギ文化が日本から消えていく。それはここ青森でも変わらない。マタギのいなくなった山は、どうなるのだろう。先を歩く小池さんの背中が山の中に消えそうになる。私は熊鈴をそっとしまう。
花まる学習会 橋本 一馬



🌸著者|橋本 一馬(職人)
花まる学習会教室長。家具職人だった経歴からミドルネームは「職人」。家具製作技能士、狩猟免許、ブッシュクラフトアドバイザー、古代発火法検定など、さまざまな資格や技能を織り交ぜた教育的アプローチが好き。キャンプ行きがち。アイス食べがち。