【花まるコラム】『この命、尽き果てるまで~強がりじゃない、本音だよ』樋口雅人

【花まるコラム】『この命、尽き果てるまで~強がりじゃない、本音だよ』樋口雅人

 ただ不安なのです。したがってじっとしていられないのです。兄さんは落ちついて寝ていられないから起きると云います。起きると、ただ起きていられないから歩くと云います。歩くとただ歩いていられないから走(か)けると云います。すでに走け出した以上、どこまで行っても止まれないと云います。止まれないばかりなら好いが刻一刻と速力を増して行かなければならないと云います。その極端を想像すると恐ろしいと云います。冷汗が出るように恐ろしいと云います。怖くて怖くてたまらないと云います。

『行人』夏目漱石

 花まる講師を始めた当初から、一貫して自身のなかに抱き続けている矛盾。それは人格者たり得ない自分がさも「人格者であるかのような物語」に乗っかり、「大人の代表の一人」として子どもの前に出てゆくことの欺瞞性。小学生も高学年ともなれば、そうした「からくり」を多かれ少なかれ意識し始めるもの。そんな眼差しの前で「素の人間」として振る舞えるだけの強固な自我など到底持ち合わせていない自分。時々冷静になっては「あろうことかこんな自分が…とんでもない世界に踏み込んでしまったなぁ」と一体幾度、感じてきたことか。しかし目の前の愛すべき子どもたちのために「せめてでき得ることがあるなら」…その一念をもって自家撞着と向き合い続けてきた日々。その膨大な時間を何とか「先生である自分」として存在せしめたもの――それは「精一杯の強がり」でした。いや、単なる「強がり」ともちょっと違う。子どもの前に立っているときだけは「素の状態なら『強がり』でしかない台詞」を「何の衒いもない本音」として口にできる…そんな不思議な感覚を、ここまでずっと抱き続けてきました。子どもたちの前でなら、強い自分でいられる気がする――まったくもって論理的な整合性など皆無なのですが、その感覚だけが、この脆弱な自己像しか持ち合わせていない自分を「花まるの先生」として生き永らえさせてきた…すべては子どもたちの存在あってこその「この命」でした。

 先日、卒業生YちゃんとZoomで久しぶりに話す機会に恵まれました。学習の話題から始まって、逆にYちゃんからいろいろと寄せられる質問…そんな流れのなかでふと「これだけは伝えてあげたい」とひらめいたこと。それは「Yもこれからいろいろ大変なことがあると思う。『誰かにすがりたい』『相談したい』って思うこともきっとある。そんなときにもし、先生のこと思い出したらぜひ連絡して。先生もともと気の利いたこと言えるタイプじゃないんだけれど、不思議と『Yのためなら』いいこと言ってあげられる気がするんだよね(笑)」——こうした台詞が口をついて出たことに自分でも驚いたほどでしたが…それはもうその場での、偽らざる本音でした。正面切って「先生でござい!」と啖呵を切れるような自信なんか、まったくあるわけじゃない。しかしこと「教え子に心から求められる限りにおいては」何だってできそうな気がする、そんな「何の根拠もない自信」が持ててしまう――不思議なものです。「こんなに大人びた表情ができるようになったんだ」と言いたくなるような神妙な面持ちで、伝える言葉の一つひとつに聞き入ってくれたYちゃん。そして飛び切りの笑顔で「はい!」と頷いてくれた、あの愛くるしくも清々しい表情…このうえなく透徹なる何かに、心洗われたような思いがした夜でした。

 「今年こそ死ぬかもな」と思い続けて何年目か…今年も「夏=サマースクール」が目前に迫っています。年々削られていく体力。一瞬一瞬に試される人間力。大人も子どももない、存在が「剥き出し」となってしまうこの場において、こんな自分が果たして今年も「先生」を、「子どもの前だからこそ強くいられる自分」を、貫き通せるのか。たとえて言うなら喉元に真剣を突き付けられ、命の蠟燭が物凄い速さで消耗するのをリアルに感じられる恐怖——しかし「すでに走(か)け出した」以上、いっそう「速力を増して」進むのみ。人間一匹、退路を断ったその背後に立ち昇る「何か」を携えて、子どもの前に立つ覚悟——全存在を懸けてこの命、燃焼させてまいります。

花まる学習会  樋口雅人(2022年)


*・*・*花まる教室長コラム*・*・*

それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。

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