【花まるコラム】『負け戦はしない、勝ち戦もしない』久慈菜津紀

【花まるコラム】『負け戦はしない、勝ち戦もしない』久慈菜津紀

「よーい、どん!!」
 開始の合図を待っていた子どもたちが、一斉に動き出しました。頭の上にバランスよく乗せていた箱を下ろし、その中にキューブキューブ(空間認識力を鍛える立体教具)のピースを詰めていきます。「できたっ!!」独自の入れ方を見つけている子も多く、早い子はものの10秒で完成。やったね!と目線で祝福の気持ちを送っている間にも、「はいっ!」「できた〜!」とほかの子が続きます。「よっしゃ!最高記録〜!」とガッツポーズをする子もいれば、自分のタイムを箱に記録する子、「あーまた同じ…」と1秒の壁に悔しさをにじませる子も。早く終わった子は次の教材を準備しながら、それぞれの1分間を過ごします。
 そのなかで、最後まで手を動かし続けている子がいました。「うーん、いけないか。じゃあこっちにしよう」とつぶやきながら、ひたすらいろいろな入れ方を試していきます。ようやくMくんが「できたっ!」と顔を上げたのは、タイムアップとなる1分経過目前。「よっし、今日も1分でいけた!」と達成感をしっかりかみしめて、次の準備へ移りました。
 すべてのピースを箱にしまえたのはMくんが最後。しかし、彼のことを「遅い」という子は一人もいません。そもそも「自分との勝負」ということを知っているからというのもありますが、一番は彼の勝負の内容をほかのみんなも知っているからでしょう。どんな勝負かというと、「入れ方を決めない」というものです。はじめに手に取ったピースから入れ、そのあとも目の前にあった「これ」というピースをしまいます。それぞれの形を考えながらしまうことを、あえて「しない」のです。
 おそらくMくんは知っていたのだと思います。最速を求めることには、限界があることを。オリジナルのしまい方を見つけて極めようと思えば、きっと一瞬でひらめくし、試行錯誤をしてより早くしまえる方法を見つけるでしょう。ほかのしまい方を生み出すことだって、難しくありません。しかし、彼はその道にこだわりませんでした。手に取ったピースからしまう、という新しい戦いをステージに持ち込んだのです。適当にしまえばしまうほど、最後の最後に必要な思考の量はむしろ増えます。彼は、そこを楽しんでいたのです。
 負け戦はしない。けれども、勝ち戦もしない。それが、彼の戦い方、戦いの楽しみ方でした。「1分以内で箱にしまう」という目的を考えれば、途中で難なくしまえる選択肢をとりたくなります。けれども、それじゃつまらない。毎回全力で楽しむには…と考えた末に、新しい勝負のルールをMくんは生み出していました。そんな選択ができるMくんの軽やかさと〝あそび〟の幅を見習って、いつのまにか効率や合理性を求めがちになってしまった日々の生活を、もう少しゆるやかに楽しんでみようかなと思ったのでした。

 中学校からの帰り道。自転車で通るその道の後半は、ゆるやかな下り坂が続きます。ペダルを漕げばもっと速く進むことはわかっていましたが、なんとなくそれはもったいない気がして、重力に身を委ねていました。ふと、下り坂ではそれまでの役割を失った足で、反対側にペダルをまわしてみました。チェーンが巻き取られる音と同時に聞こえる独特の軽い音。重力に束縛されないその音がなんだか心地良くて、感じた風を心のままに自分だけのメロディーを奏でる…。そんな時間が好きでした。

 別れの季節には少し早い1月。Mくんは花まるを卒業しました。次に進む道は、スクールFC。これから、具体的な目標に向かって新しい挑戦が始まります。Mくんなら、きっとどんなステージでもMくんらしく楽しみ、Mくんらしく進んでいくことでしょう。いまを楽しみ続ける彼へ、めいっぱいのエールを送りたいと思います。

花まる学習会  久慈菜津紀 (2022年)


*・*・*花まる教室長コラム*・*・*

それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。

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