【花まるコラム】『20年ぶりの桜井コーチ』任田謙介

【花まるコラム】『20年ぶりの桜井コーチ』任田謙介

 2021年の年末に、故郷に帰省した。最寄りの駅の裏に「CHERRY」という床屋さんがある。そこのご主人の桜井さんは、私が小学生の頃、月曜日に野球のコーチをしてくれていた。桜井さんというコーチは2人いて、もう一人は大学生くらいのお兄さんだったので、我々小学生は勝手にこの桜井さんのことをひそかに「桜井コーチ(老)」と親しみを込めて呼んでいた(読み方は「さくらいこーちかっころう」)。もう約20年前になる。当時から見た目は“おじいちゃんコーチ”だったが、背筋はピンと伸びた方だった。ジャージなどではなく、いつもしっかりとユニフォーム姿で教えてくれていたのを覚えている。怒ることはなく、毎回練習の最後は紅白戦にしてくれるので月曜日の練習が好きだった。床屋さんなので月曜日以外は来られず、土日の試合を見に来てくれたことはなかった。
 これまで実家に帰ったときも、いつもその駅の裏の道を通るわけではないので、この日に看板とそのお店を見るまで、桜井コーチのことも正直私の記憶から消えていた。しかし看板を見つけたときにすべてがよみがえってきた。赤と青のサインポールも回っている。行ってみよう!と思い、ゆっくり通り過ぎながらガラス張りのお店の中をのぞいてみた。

 桜井コーチはいた。コーチは私が小学生の頃よりもずっとやせ細っていて、小さくなっていて、頭もかなりはげていた。のんびりとした動きで、同年代のおじいさんの散髪をしている。

 この十数秒間に、コーチが生きていたこと、いまも元気に仕事をされていることの感激が全身をめぐった。もうきっと私のことなど覚えていないだろうし、「桜井コーチ!覚えていますか!?」と言いにいく勇気もないのだが、桜井コーチがまだ同じ空の下で生きていて同じ約20年間を変わらないこの床屋さんで過ごしていた事実が、すごくすごく嬉しく幸せな思いだった。
 身体を翻して、いま通り過ぎたばかりの道をゆっくり戻りながら、もう一度だけ焼き付けるように店内を見て、私はコーチと別れた。

 この出来事が私に教えてくれたことは2つある。
 一つ目は、教えてくれた人のことはいつまでも覚えているということ。きっと教えていた側は、すべての教え子を一人ひとり正確に覚えているわけではないかもしれない。私も子どもたちを預かる者として「受け持った生徒のことは決して忘れないでいたい」と強く思うのだが、100%というレベルではどうにも難しいのが正直なところでもある。
 しかし教わった側の人間にとっては、いつまでもいつまでも先生であり、監督であり、コーチなのだ。それは想像以上に教え子一人ひとりの心に大きく宿り続けているのだということを自分の身を襲った大きな感激から学んだ。
 もう一つは、当たり前のことだがいまいる場所で一生懸命に授業をしていようということだ。この日、桜井コーチは私に何もしていない。ただ普段の場所にいて、ただ目の前の仕事をしていただけだった。にもかかわらず、その姿に私は胸がいっぱいになった。
 スクールFCと西郡学習道場で授業を担当していると、春は多くの卒業生が会いに来てくれる。この仕事をしていて最も幸せな時間でもある。制服姿の中学生、体の大きくなった高校生。FC・道場の先生となって戻ってきてくれる卒業生もいる。
 しかしなかには、私のように会いに行く勇気はなくても、変わらない校舎や、入口で子どもたちを迎える先生たちを見かけるだけで、心が満たされた・力をもらえたという子がいるかもしれない。その日は明日かもしれなければ、20年後かもしれない。わかるわけがないことなのだから、とにかく今日も、いまいる場所で一生懸命に授業をしていたい。

西郡学習道場/スクールFC   任田謙介(2022年)


*・*・*花まる教室長コラム*・*・*

それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。

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