【花まるコラム】『蜘蛛の意図』西川文平

【花まるコラム】『蜘蛛の意図』西川文平

 ついこの間まで寒い寒いと思っていたのに、もう半袖で過ごせる陽気の日もあり、なんとなくウキウキとした気持ちになります。あたたかくなって、楽しい気持ちになるのはどうやら人間だけではないようで、生き物たちも心なしか活動的になっているように感じます。
 先日、部屋の隅を見ると小さなクモがちょこちょこと歩いていました。彼(彼女かも)もまた、春の陽気に誘われて、ふらりと散歩に出てきた口かもしれません。見た目のグロテスクさから「益虫」という前評判の割には、あまり愛されていない感のあるクモですが、私は、好きです。いや、好きというよりは、敬っているというべきかもしれません。
 私は奈良の田舎で生まれ、幼少期はずっと野山や田んぼ(あと古墳)に囲まれての暮らし。当然、鳥や動物、虫の類とも接する機会に恵まれていました。豊かな自然。そこには日々の暮らしのなかで、自然を敬う「しきたり」や「知恵」がありました。
 たとえば、前述のクモ。小さいハエトリグモのようなサイズのものから、人間の手の平ほどもあるアシダカグモまで、多種多様。小さいものならまだしも、大きいものが家に出たときは怖くてしかたありませんでした。ある日、大きめのクモが現れたので、「退治しよう」とくるくると新聞紙を丸めていると、家の奥から「クモは殺したらあかーん!」と祖母の怒号。「え!?」と驚いている間に、クモはどこかへ行ってしまっていました。その後、祖母が「クモは悪い虫を食べてくれる神様の使いやから、殺したらあかん。そっとしておいたら、何かして来るいうことはあらへん」と教えてくれました。(何もしなくても、寝ている間に顔の上とか歩いていたら…とか思うだけで、ゾッとするのだけどな…)と思いつつ、クモとはそうした距離感でのお付き合いがスタート。「鰯の頭も信心から」という言葉もありますが、不思議なもので小さい頃に刷り込まれていた言葉というのは強く、いつの間にか、クモは退治するものではなく、そっと逃がすものになっていました。
 ほかにも「蛇も同じく神様の使いであるからいじめてはいけない」とか、自然とのことに限らず、「敷居は踏んではいけない」「靴をおろすなら午前中」とかいろいろあって、正直、ほとんど迷信に近いようなものも多くあったように思います。「何の意味があるの、こんなことに」と思ってしまうようなことかもしれません。しかし、私は、意味とか根拠とか、そうしたものだけに支えられた「教え」は味気ないなと思ってしまいます。「クモは害虫を捕食してくれる益虫であるからして云々」というような、理屈っぽい伝え方をしないでくれた祖母に感謝です。「神様の使い」そうやって言ってくれたからこそ、クモをただの「虫」ではなく、もっと豊かなイメージを持ってとらえることができました。
 知識や情報は、それだけでは何だか味気ない。人の心や願いが織り込まれて初めて、それらは色彩を帯び、そして「知恵」として昇華される。情報と数字の嵐に右も左もわからなくなってしまいそうな現代だからこそ、子どもたちには、心に確かな「知恵」を携えていてほしい、そう願います。

 「僕の授業はどうだろうか。子どもたちに情報だけを伝えているような、つまらないものではないだろうか」窓からクモを送り出しながら、そっと問うてみました。「さぁ、どうだろうね」クモはひと言そう答えると、春の麗らかな空の下へ、散歩の続きに出かけていきました。

花まる学習会 西川文平(2023年)


*・*・*花まる教室長コラム*・*・*

それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。

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