1月某日。ある私立中学の入試当日。とてもとても寒い朝だった。待ち合わせ場所としていた、学校から少し離れた神社の前で待っていると、1台の車が止まった。Aちゃんだ。2年生から花まるに通っているAちゃんを、5年間担当してきた。演劇をやっていて、皆の前で発表することにも慣れている。算数大会などの特別授業では、誰と組んでもあっという間に仲良くなり、「今日学校でこんな失敗しちゃったんですよ~」とケラケラ笑いながら話すような明るい性格で、ほかの学年の仲間からも慕われている女の子だった。
「将来、森林の整備をする人になる」という夢があり、中学受験をすると決断したのが5年生の春。その後、6年生の夏までは花まると通信教材のみで、その後は受験塾にも通いながら花まるは続けてくれていた。
車から急いで降りてくるAちゃんに「おはよう!」といつも通り挨拶をした瞬間、ハッとした。Aちゃんの眼に涙がじんわりと滲んだのだ。何でもすいすいとこなしてしまう彼女。入試本番も、きっと平常心で臨めるだろう、そう勝手に思ってしまっていた。しかし彼女は一瞬の涙を飲み込み、「先生~来てくれてありがとうございます! これから頑張ってきます!」とガッツポーズ。私もいつも通りの笑顔でエールをおくった。学校に向かって歩いていくAちゃんとお母さまの背中を見送っていると、ふとAちゃんの過去の姿が浮かんできた。
3年生の頃のこと。小学生クラスには、計算力向上のための「サボテン」という教材がある。「自分との勝負」を合言葉に、毎日時間を計り取り組んでいく。3年生の5月の課題は「余りのある割り算」だった。割り切れる計算に比べて手順が増え、例年苦戦する子が多いのがこの単元だ。Aちゃんもその一人だった。一気に難易度が上がり制限時間の3分では終えられない。タイムをなかなか縮めることができない自分にイライラし、ページがくしゃくしゃになっていることも。だが「できるようになりたい!」という強い気持ちの裏返しだと、ただただ「今週も頑張ってきたね」と伝え続けた。
翌月、「サボテン」で扱う単元が「4桁の筆算」に変わった。しかしAちゃんは納得せず、「先生、もう1冊サボテンが欲しいです!」と言いに来た。確かに計算力の向上には、特効薬はない。反復と継続あるのみ。お母さまとも相談し、追加でサボテンをご購入いただくことにした。
2冊目に入り、少しタイムがあがってきた。しかし、Aちゃんとお母さまが立てた「1分30秒を切る」という目標はなかなか超えられない。月末にさらに追加購入を希望され、その後も、毎回の授業にサボテンを持参し、その都度、頑張りを認め、励まし続けた。
「先生! ついにやりました! 1分28秒、新記録!」と満面の笑顔でサボテンを胸に走って来たのが、それから5か月後のことだった。もういつの間にか季節は冬になっていたが、Aちゃんの晴れやかな表情が嬉しく、「やった~!」と一緒に飛び跳ねて喜んだことを思い出した。
あれからあっという間の3年間。「いまのAちゃんなら大丈夫。頑張っておいで」と二人の背中を最後まで見送った。
そして先日、Aちゃんが憧れの中学の制服に身を包み、教室に来てくれた。「うちの購買部、最高なんですよ~」と早くも中学生活を楽しんでいることが表情からも伝わってくる。そして「そういえば…」とお母さまが、入試当日のエピソードをこっそり教えてくれた。「実はあの日、Aの鞄には、休憩時間にやる用のサボテンと、昔のサボテンが10冊も入っていたんですよ」と。理由を聞いてみると、「サボテンをやると、何となく頭にエンジンがかかるっていうか、いつもやっているから頭の準備体操になるんですよね~」とAちゃん。過去のサボテンも持って行った理由は教えてくれなかったが、頑張ったことを思い出せるように鞄に忍ばせていたのだろう。
1日1ページ、毎日3分。欠かさず取り組んできたという「事実」が「習慣」となり、その「習慣」がいざというときの大きなお守りになった。自分が信じることができるもの、自分を支えてくれるものは、自分の近くに、そしてすでに自分のなかにあるものなのかもしれない。
花まる学習会 樫本衣里(2023年)
*・*・*花まる教室長コラム*・*・*
それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。