【花まるコラム】『根っこに、信頼』坂田翔

【花まるコラム】『根っこに、信頼』坂田翔

 なにか忘れ物をしたとき、子どもたちには「どうしたいかを考えて、自分で伝える」を大切なこととして伝えています。「鉛筆忘れました」の一言でも「あ、つまり鉛筆を貸してほしいんだな」とはもちろんわかるのですが、私はそれでは貸しません。このような含意のある言葉を発することを、言語学的には「間接発話行為」といいます。「この部屋暑くない?」の本音が「エアコンをつけてほしい」だった、というようなことで、とりたてて不誠実でもありません。でも、忘れ物の報告をしにくるとき、私はその意図を迎えにいくことはしません。意地を張っているわけでも、意地悪をしているわけでもありません。私はただ、言いにくいことこそ、自分で言えるように強く育ってほしいのです。

 「忘れ物をした」、これだけで子どもにとっては後ろめたい気持ちが生まれます。その不安に負けてしまうと、子どもにとっても不本意な形で「ごまかし」の表現をしてしまいます。「プリントが無い」と言われると、私は「本当に家にも無いからそう言っているの? それともキミが忘れたの?」と聞きます。ごまかしが通用しないことを悟ると、子どもは「持ってくるのを忘れました」と言い直します。細かいようですが、大切な違いです。「忘れた」という自分の行為の不備よりも、「無い」という現象のほうが言いやすいから最初にそう言ってみるのです。嘘でもないので、場所によっては通用してしまうでしょう。だからこそ、私は聞き返します。子ども自身も自覚していない小さなごまかしの選択に、一緒に向き合いたいからです。次に忘れないようにするのも、人を頼るのも、打開策も代替案も、前に進む一手はすべて「現象」ではなく自分の「行為」によってのみ生まれるからです。
 「宿題を忘れました」の一言を取ってもそうです。宿題のことを一週間忘れていたのか、自分の気持ちの問題で宿題をやらなかったのか。宿題のテキストを持ってこなかったときも、単なる忘れ物か、やっていないのが後ろめたくてあえて持ってこなかったのか。
 怒りではなく、ただ純粋に、子どもに聞き返すだけ。それだけで、子どもにとって自分自身とまっすぐ向き合うチャンスになります。疑っているから聞いているのではありません。ごまかさずに成長できる人だと、心から信頼しているのです。

 今月、ある男の子が「宿題のテキストを忘れました」と報告してきました。「わかったよ。宿題自体はやってあるな?」と聞くと、「はい!!」と笑顔で答えました。「いい顔だね。信じてるよ」と、私も笑顔で言いました。
 2か月前まで、彼は宿題をまったく提出できない状態に陥っていました。家にテキストを忘れた、でも宿題自体はやっている。そう言って逃れ続けて1か月経っても、 私はその間ずっと、「信じてる。だから次は持っておいで。約束だぞ」と伝えていました。しかし、ついに提出したテキストは、手つかずの綺麗な状態でした。
「先生は、次はやってくるって約束をずっと信じていたんだ。キミが約束を守れる人だとも信じていた。いまも信じてる。それが嘘だったのがわかったいまだって、キミのことが大切だし、応援しているよ。だからごまかさずに、本気で考えてみてほしい。キミは、このままで本当にいいのか」
まわりの空気がピリつくほど、強い気持ちで伝えました。彼は涙を流しながら、まっすぐ私を見つめていました。その翌週、教室に着くなり「先生! 俺、宿題全部やってきたよ!」と報告してきた彼。それからずっと、彼は宿題をしっかり続けています。

 さて、久々に宿題のテキストを忘れた今月の彼は、その日こんな作文を書きました。

ぼくがうれしいときは、なんこかあるけど、なんこかの1つは、花まるにわすれものをしたときに、先生に「しんじてる」といわれることです。2つめは、花まるでなにかの大賞になることです。

 信頼されることの喜びを知った彼はもう、ごまかしません。忘れ物の不安や、評価への恐怖、怠惰な気持ち。そんなものより、人と人との信頼は、ずっと強い。失敗するたびに、まっすぐ受け止めて前に進める人に育ってほしいから、私は子どもたちを信じて、まっすぐ向き合い続けます。

花まる学習会 坂田翔(2022年)


*・*・*花まる教室長コラム*・*・*

それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。

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