年中の授業で、紙飛行機をつくりました。ある男の子に紙を渡すと見本には目もくれず、パタパタパタと折りあげていきます。そして、完成するやいなや、紙飛行機を持ち上げるその勢いのまま一気に飛ばしました。ポーズを構える時間をも惜しむほど、「自分がつくったものを飛ばしたい」という衝動が突き動かしていたのでしょう。不器用ながら一生懸命に折られたその紙飛行機は、一メートルほど飛んでから旋回するように落ちていきました。
今度は私と一緒に、見本と同じように折ってみることにしました。一回一回の折り方を一緒に確認し、見本と同じような飛行機ができました。いざ、飛ばしてみると今度はほぼ地面と平行にまっすぐ飛び、壁にぶつかるまで伸びていきました。上出来でしょう。ところが、彼はまた別の折り方で新しい飛行機を折り始めたのです。すでに完成された紙飛行機があるのだから、それをまた飛ばして遊ぶということもできたでしょう。それでも彼が新しい飛行機にこだわった理由は、私にも何となくわかります。よく飛ぶ飛行機をつくることも楽しいものですが、それを自分自身の手でつくりあげることは、もっと楽しいことだからです。
小学生の頃、クラスで紙飛行機が流行したことを、いまでもよく覚えています。先端の角度を少し曲げたり、翼に折り目をつけたり、全員が少しでも飛ぶ飛行機をつくろうと工夫を重ねていたのです。休み時間になると教室の壁側に一列に並んで、いっせいに飛ばします。一生懸命に折ったものが、急角度で床に墜落したり、へなへなに折ったものが不思議と上空に舞い上がり異様な滞空時間を見せたり…その予想外の動きにみんなで大笑いして、また新しい飛行機を真剣につくる。そんなことを繰り返していました。
やがて我々にとって革命的な技術が発見されました。それは、紙飛行機の先端にセロハンテープを巻きつけるというものでした。これは瞬く間にクラス中に広がり、多くの飛行機技師がこの最新の技術を導入しました。かくいう私もその一人。紙飛行機を「重くする」という直感に反する技術に最初は疑問を抱きましたが、試してみるとその差は歴然。いともあっさり教室の端から端まで、直線的に飛行することができたのです。
いま思えば、それは当然のことだったと言えるでしょう。空気の抵抗を割いて進む先端を持った紙飛行機のほうが、近距離であればよく飛ぶ。そのことは、長年の生活のなかで培われた物理的感覚に矛盾しません。おそらく、紙飛行機に限らず記憶に残ることのなかった無数の遊びが、私にこういった感覚を伝え、教えてきたのでしょう。
かつては多くの人々にとって、経験として知っていたことをのちに学科として学ぶということが、ものごとの順序として多かったはずです。粘土を焼いて土器をつくる際の化学変化を、縄文人が経験としては知っていても、知識として理解していたということは考えられません。しかし、何度もその現象を見て、利用して土器をつくってきた人が、化学の法則を知ったとき、その胸に感動として刻まれる知識は、机を前に教科書で学ぶ知識とは異なってくるのではないかと想像されます。シーソーで遊んだ経験がなければ、「てこの原理」もただの暗記する知識になってしまうことでしょう。
いまの時代、すべてのことを学ぶ前に経験しておくことは簡単ではなさそうです。学問の内容も現実の生活から遠く離れたもので、ニュートンがリンゴの落ちるのを見たように、町を歩いていて核分裂を肉眼で見られるわけではありません。それでもなお、実体験によって得られる感覚が、考えるうえでの基盤になっていることは多いはずです。経験したものの少し先を予測し、実践する。それを繰り返して「工夫し、考える」という技術が洗練されていくのです。
年中の男の子は、限られた時間のなかで紙飛行機にセロテープを用いることを発見しました。先端をぐるぐる巻きにする技術を発見するのも時間の問題でしょう。やってみて、考えて、工夫を加える。この繰り返しに現在の科学技術もあるはずです。紙飛行機を折るというシンプルな遊びに、そのプロセスのすべてがそろっているのです。
花まる学習会 山崎隆(2022年)
*・*・*花まる教室長コラム*・*・*
それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。