【花まるコラム】『走りはじめた鉛筆』久慈菜津紀

【花まるコラム】『走りはじめた鉛筆』久慈菜津紀

 「書くことなんてない!」その〝たたかい〟は、1年生の秋頃から始まりました。
 花まる学習会では1年生の夏から作文の取り組みが始まります(子どもたちが毎週一枚ずつ書く作文に、講師からのコメントと添削を入れて返却しています)。「息をするように書く」、つまり自分の言葉で伝えられるようになることを目標にしている作文は、書くことが好きな子とそうでない子で反応も実にさまざま。私も「素直に自分の言葉で伝える力を伸ばしていけるように」と思い続けて、教室でも「長い立派な作文を書かなくてもいいんだよ」と伝えています。ですが、なかには「作文は苦手だから」という言葉で自分に魔法をかけてしまう子もいて、Gくんもそんな一人でした。

 作文が始まった頃は、苦手意識があったわけでもなく、滑り出しは順調に見えました。ところが、書く題材に困るようになると「いやだなぁ」という気持ちがあらわれはじめたようです。「書くことがないんだもん」と言いながらも『作文は毎週書くもの』という認識はあって、授業の終盤になると作文用紙とにらめっこ。「僕、作文は苦手だからさ!」と開き直ったように言葉にすることもありました。授業終わりの挨拶後、作文を提出していないことをアピールするかのように教室のドアのところを行ったり来たり。「引き止めてよ!」と言わんばかりの行動と、提出するまでは帰ろうとしないその姿に、彼なりの作文への気持ちが感じ取れました。

 ―― さっき教えてくれたあの話は?「あれは書かない」
 ―― クリスマスにプレゼントもらったんでしょう?「うーん、やめておく。すぐ終わっちゃいそうだから」

 Gくんと話していて一つ気づいたことがあります。どうやら漠然と「『いい作文』を書きたい」という気持ちがあるようでした。けれども、「こういう作文を書きたい」という彼の気持ちに、まだまだ語彙やイメージ、表現力は追いついていません。理想と現実のあいだで葛藤しているようでした。
 「Gくんが思っていることをそのまま書いていいよ」「いま話したこと、それも書いていいんだよ!」あるときはお話ししながら、あるときはインタビューをしながら。一緒に考える日々が続きます。題材さえ決まってしまえばイメージが膨らんでいくようで、言葉を紡ぎながら徐々に自分の気持ちを書けるようになっていきました。

 彼の変化を感じるなかで、私は反省しました。慣れれば自然と精度が上がったり、やりやすくなったりするものは多くあります。そして、そのことを大人はこれまでの経験から知っています。しかし、子どもたちはいままさにその経験の真っ最中。私はどこかで、数ある「作文を書く機会」のうちの一回だから、気軽に書いていいのにな、と思っていたことに気づきました。書いていくなかで伸びていくことも知っていたので、この一枚で苦しんでほしくない、そう考えていたのです。
 しかし、彼の「いい作文を書きたい」という強い気持ちに触れて、それは私のエゴだったことに気づきました。作文に「練習」はありません。作文は自分の思いを言葉にする、伝える、その一回一回が本番であり、書き上げた作文はその子の作品です。「書きたくない」のではなく、「書くことなんてない(=書きたいことが見つからない)」というのは、彼の心の叫びでした。
 そのことに気づいてから、私もアプローチ方法を変えました。作文を書くことをサポートするのではなく、彼がどんなことを経験し、どんなふうに感じ考えたのかをインタビューしながら、彼の心の躍動にぴったりの表現を一緒に探していく。そんな時間になりました。いままでよりG くんの心に寄り添えるようになり、彼が自分自身で乗り越えた経験も重なって、もう「作文が苦手」と言うことはありません。

 「あのね」から始まる、Gくんのお話。伝える喜びのなかに、いつか自分の思いを言葉で表現する喜びも感じるときがくるでしょう。内側からこんこんと湧き出るようなものに対して、そしてそれを共有することに対しても、喜びを見出せる感性を持ち続けてほしい。そんなふうに思っています。走り始めたGくんの鉛筆がこれからどんな物語を紡いでいくのか、楽しみです。

花まる学習会 久慈菜津紀(2022年)


*・*・*花まる教室長コラム*・*・*

それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。

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