「ごはんちゃんと食べている?」母からよく届いていたメールである。前職のSE時代、家にほぼ帰れていないのが現状だった。その返信は、「うん」の2文字。それでも「寒くなってきたから暖かくして寝てくださいね」と優しさにあふれるメッセージをくれる。「正月は帰る?」「いつ頃帰る?」と届くメッセージにも「落ち着いたら」と曖昧な返事をしていた。
まだ青かった時代。母の口癖は「それが普通!」であった。それがいやで言うことすべてに口答えしている自分がいる。たとえば、中学でギターを始めたいと言うと「まわりの子はやっている?野球を頑張りなさい!部活だけ頑張るのが普通!」と言う。私は「別に勝手にやる」と返す。野球は一番頑張っており、そのうえで挑戦したいだけなのだが、母は「みんな」がやっていなければ、心配になる性分。もう話すのさえやめようと思った。
転職し、教師の道を目指すと母に告げたとき、母は泣き崩れた。勤める大企業で仕事を続ければ、将来は安泰。なぜやめるのか、と止められた。反対する母に教育への想いを丁寧に説明したものの、理解されない。自分勝手かもしれないが、結局、固い意志を貫き、教育の道に進んだ。
ある夜、実家に帰ると、母が「実は大したことじゃないんだけれどね」と話を始めた。「喉の下に、腫瘍ができているみたいで…」その瞬間、私の体に電気が走ったような感覚に陥った。「え?」聞き間違いかもしれないと思った。「悪性か良性かは、まだわからないんだけれど、手術することにはなると思う」と。いまの時代、デリケートな病気も、本人に告げてしまうものなのだと驚いた。私の心臓は拍動のテンポを確実にあげていた。事実を受け入れるまでに時間はかかったが、よくわからない気持ちが私を支配している。これがおそらく「後悔」というのだろう。冷たく反応してきた自分を責めた。しばらくし、「いま、自分は何ができるんだ?」そう考えはじめた。とにかく実家に帰り、会う時間を増やそうと決める。しかし、そういうときに限って、仕事が繁忙期。明らかに元気がない母に、私もどう声をかけていいかわからなかったが、いつも通りを意識して過ごした。
しばらくして検査の結果が出る。結果は良性。一安心したのも束の間で、失敗の可能性がある手術をすることに。一難去ってまた一難。大病院に入院することになった。見舞いに行き、何を話すでもなく、ただ病室にいる私に母は「あの雑誌が読みたい」など、いつもはあまりない要望を多く伝えてくる。動揺しているのか。手術当日は仕事でいけなかったが、父が仕事を休み、付き添ってくれた。手術時間になると、仕事が手につかずそわそわしていた。時間を見つけ、父に電話。「まだ手術中」と素っ気ない返事。5分毎に父に電話をかけている。「結果が出たら電話するから」と父もイライラしている様子だった。しばらくし、着信。仕事を抜け、電話にでると、「大丈夫、うまくいったぞ!」と興奮しながら、声の音量をおさえたような声で報告してくれた。それを聞いた瞬間、自然と涙が流れていた。
病気がきっかけで、母への愛情に改めて気づけた。きつい受け答えをしてしまっていた過去を悔やんだ。やはり、心の底から母を愛している。この後、私の行動は明らかに変わっていく。母と2人旅に行き、自分の誕生日は両親に感謝を伝える日にした。食事をごちそうし、「生み育ててくれてありがとう」と伝える日にする。還暦祝いは、母が行きたがっていた普段行かないような店で祝った。まだまだ元気に過ごしてもらわなくては困る。365日、当たり前に一緒にいた母と会えるのもいまでは、1年に4回程度。あと10年生きたとしても40回しか会えない。母に少しでも喜んでもらえるように、ともに過ごせる時間を増やし、充実した時間にしていこうといまでは決めている。
花まる学習会 岡裕介(2021年)
*・*・*花まる教室長コラム*・*・*
それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。