「40歳になっても俺はまだまだこんなもんじゃねえ!って目をギラギラさせる自分がいる」
先月オンラインで開催された、ある漫才コンビの解散ライブを視聴しました。12年前に結成されたそのコンビは、人見知り、カリスマ性がない、など私生活や仕事における自身の「たりなさ」を漫才に落とし込むことで笑いを誘い、また同じ悩みをもつ人の共感を得ていました。いつかは「たりている」人間になれると信じて仕事に打ち込み、番組では司会を務めて超売れっ子になった二人。また結婚してプライベートも充実したように見える二人。しかし、司会を務めると、共演者との距離感、司会の責任感といった新たな悩みが生まれる。そんな悩みと向き合うなかで、冒頭の言葉に至ります。私はこの言葉を聞いた瞬間、笑っていたと同時に、なぜか涙が止まりませんでした。
子どもの頃、私の目に映っていた大人はとても立派に見えました。学校の先生、野球チームの監督、そして両親。自分にできないことをいとも簡単にこなす大人を、何でもできるスーパーマンだと思っていました。一方の私は野球でヒットを打てなかったり、忘れ物をしたり、友達のことで悩んだり。大人はこんなことで悩まないんだろう。自分も大人になれば悩みもなく、楽しく生きていけるんだろう。早く何でもできる立派な大人になりたいと思っていました。
しかし、大人になったいま、子どもの頃に描いていた理想の大人にはまったくなれていません。むしろ日々思い悩むことばかり。仕事も私生活もたりないことばかりです。仕事の見通しが甘かったり、本当に子どもたちを躍動させるいい授業ができているのかと自問したり。それでもいつかは全部できるようになる、憧れの著名人や先輩のようになれると思って仕事に打ち込んできました。
自分がいつか満ちたりた人間になれると思っていたところでの冒頭の言葉です。40歳でバリバリ働いて、最前線で活躍している人ですら、日々悩みながらもがいているのか。たりなくなることなんて一生ない。何かを手に入れたら、また新たな「たりない」が生まれる。むしろ、たりなくても、目をギラギラさせて、もがき続ける生き方がかっこいい。完璧にできる、いやできないといけないと追い込んでいた自分を許し、たりない自分と一生付き合っていこうと思えました。そのとき、重たい荷物が下りて、涙が出たのです。
先月から多くの保護者の方と面談をさせていただいています。そのなかでいくつかいただいた相談が、“たりない自分との向き合い方”です。サボテン(計算教材)で目標タイムに届かずイライラする、タイムをいじろうとする。漢字が書けなくてグチャっと塗りつぶす。できないくらいならやらないほうがいいと逃げる。そもそも理想や目標がなければ、たりないことを自覚することはなかったのに、目指すことでたりなさを突きつけられる。そんなとき、どうすればいいのか。
結果ではなく、過程を認める声かけが大事なのはもちろんです。しかし、本気で目標を目指して達成できなかったとき、「頑張ったからいいじゃない」ではモヤモヤを消化できないこともあります。同情に聞こえてしまい逆効果になることもあるでしょう。その悔しさは、何度経験しても慣れません。本気で向き合ったからこそ返ってくるものも大きく、胸をえぐられるような思いになります。では、夢や目標がなければいいのかと言われると、それも違うと思います。
たりない自分との向き合い方は人それぞれ、また時と場合で違っていていいと思います。たりなさを楽しんで克服できれば、見ている側は安心でしょうが、誰もが常にできるとは限りません。逃げたりごまかしたりすることもあるでしょう。それでもいいと思います。短所が見えないくらい長所を伸ばすことも一つ。回避して整えてから臨むのも一つ。たりなさの向き合い方は一つではありません。絶対解がないからこそ、模索し続ければいい。そのなかで徐々に折り合いをつけることで、楽しさを見出せるのではないでしょうか。私は最近になってやっと、たりない自分と向き合い、少しだけ楽しめるようになりました。人生のたりない先輩として、子どもたちと伴走しつつ、これからももがき続けてまいります。
花まる学習会 森田風斗(2022年)
*・*・*花まる教室長コラム*・*・*
それぞれの教室長が、子どもたちとの日々のかかわりのなかでの気づきや思いをまとめたものです。毎月末に発行している花まるだよりとともに、会員の皆様にお渡ししています。