【高濱コラム】『パートナー力』2016年8月

【高濱コラム】『パートナー力』2016年8月

 津久井やまゆり園の事件で、犯人は「障がい者は必要ない存在だ」と言いました。「それではナチスと同じだ」とまでは皆言えても、その後この一点についてのさまざまなコメントを見ましたが、新聞はもちろん「学級委員会で褒められる答え」だし、今もっとも信頼できる情報が拾えるメディアであるネット上の各意見を読んでも、完全に納得する言葉はありませんでした。やはりマイノリティのことだしお金になるわけでもないので、みんな優しいのだけれど、多様性とよく口にはしながらも、普段はあまりこのテーマでは考えていないのだなとわかりました。息子のことはあまり書かないようにしているのですが、この機会に、少数派として家族に重度心身障がい者を抱える者として、意見を表明しておきたいと思います。

 障がいと言っても、知的・肢体・盲や聾・医療的ケアの必要のあるなし・それらが重複してある人・発達障がいなど、実に多様でひとくくりには語れません。発達障がいなどは、学校の古い仕組みの中では困る子かもしれませんが、むしろ大成功を収めた研究者や社長などの相当数が発達障がい者であることは、今や周知の事実です。
 彼らはできることとできないことがとても偏っていることが多く、軍隊型の全員一緒教育から回避させ、その尖った部分をきちんと見つけて伸ばしてあげれば、むしろ甚だしく活躍できる可能性すらあります。遠くない将来、発達障がいという表現そのものが、無くなるかもしれないとすら思っています。

 ここでは、犯人のターゲットとなった重複障がい者にある程度絞り込んで話を進めてみます。彼が狙いを定めたのは、おそらく「一番、個人としては何もできない」からです。わが息子も、知的と肢体の重複障がい者です。十七歳になる今も、立てない歩けないどころか座位もとれませんし、言葉は「ママ」「パパ」「いいよ」「いや」程度で、ほぼ話せません。こんな息子に何の意味があるのか、それまでの価値観を全部崩され、考え続けさせられました。もちろん、ものすごく可愛いのですが、ずっと考えさせられました。「助けるのは当然だ」的な、べき論からスタートする障がい者論が、納得できなかったからです。

 私の中学生時代、一人の脳性麻痺の同級生がいました。知力は十分にあるのですが、歩き方もヒョッコヒョッコだし、言葉も慣れていない人には聞き取りづらく、体の軸が明らかに曲がっている。彼女には健常の友人がたくさんいましたが、正直に告白すると、私は「かわいそうだな」という思いとともに「気持ち悪いな」とも感じていました。それまで一度も出会ったことのないタイプの子で、クラスも一緒にならなかったので、中学生ならまあ仕方ないでしょうか。しかし、いずれにせよ私は、そんな薄っぺらな人間だったのです。
 そんな私も、十代後半から二十代の哲学時代に、障がい者論は結構考え抜きました。一点、これだけは自信があったのは、「福祉の日祭り」的なイベント事として触れるのではなく、日常にそういう人と接していることが何よりの財産になる、ということでした。それで、花まる開業とともに車椅子の先生に常駐してもらったくらいです。

 しかし、重複障がいとなると答えはない。そんな私に、重度の脳性麻痺で知的にも肢体も不自由な息子が生まれました。一般の子育てと同じくらいには大変でしたが、可愛いがる気持ちのほうが勝って、とても幸せな日々でした。そんな私にあるひらめきが訪れたのは、十年くらい経ったときでしょうか。「あれ? 俺は実にだらしない(何せ三浪四留。親の金で映画だ音楽だ本だ競馬だ囲碁だとのめりこんだし、初就職が三十三歳のときです)人間なのに、わが子が生まれてこの方、えらく頑張る人間だったぞ」という俯瞰した見立てが浮かんだのです。そうか! 個人として何ができるかばかり考えていたから出口がなかったのだ。息子は、単独では偏差値がつけられないほどの存在だが、私と組み合わさることによって、社会に対して仕事をすることができたんだ!
 パートナーとしてカチッと組み合わさったとたんに、二人で一つの大きな力となった。もっと言うと、個人としては何もできないように見える息子が、ダメダメ人間の私を立て直し、無限大のエネルギーを注入してくれたのです。

 誰かと組み合わさって発揮するパートナー力。これが障がいの子の持つ大きな実力だと思っています。自分自身は何も化学変化しないけれども、相手を活性化させる触媒とも似ていますね。私は、恐らく妻というパートナーと出会うことで「遊び人からだいぶ遠ざかった」し、息子が生まれたことで、心が整えられ大切なものを見失わずにすみ、ひたすらに頑張りぬけたのだと思います。テストの点数で順位づけし一直線上に振り分ける個人戦の思想に、私自身も洗脳されていたということですが、このことを思いついたときは嬉しかったです。
 知っている人は知っていますが、重複障がいを持つ子の親たちは、いつも幸せそうに笑っています。有名な経済人や政治家や芸能人で、障がいの家族を抱えて育ったからこそ、その際立った地位にたどりついたという人物もたくさんいます。障がいの家族の存在こそがパートナーたちを真摯にさせ力づけ、人一倍の努力が可能になったのです。以上が、犯人の言葉に対する私の回答です。

 親子・夫婦・友達・チーム・会社の仲間…。誰かと組み合わさることによって、1+1以上の大きな力、あるいは一人では決して出せなかった力を発揮できる。これは、社会的な生き物である人間の、実は本質ではないでしょうか。そして、あくまで個人にベースを置いて仕分けてきた偏差値教育の弱点でもあると思います。

 これからはパートナー力に注目すべきでしょう。例えば「あの人がいると、不思議とみんななごやかになるよね」と言われる人は、その力がある人。「何とかあの人と同じチームになりたい」と願ってもらえる人も、そう。逆に、学歴競争で一見勝利したかに見えて、家庭では孤独だったり、会社で求められていない人は、かわいそうですが、その力が足りなかったということでしょう。

 わが子の優秀さを求めるのは当然の親心ですが、第一に、人として尊敬され、まわりの人たちから求め愛される人に育てましょう。
 人間の幸せは、人間だからこそ、パートナーとともにあるのだと思います。

花まる学習会代表 高濱正伸

 

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