コロナパンデミックの二年目が終わろうとしています。これを書いている時点では、いったん収束したように見えますが、海外には過去最高の感染者数を記録したり暴動が起きたりしている国もあり、引き続き警戒は必要です。いわば、とりあえずの、ほっと一息。それでも、感染拡大真っただ中の不安を思えば、本当にありがたいことです。
さて、そんななか、11月に母が急逝しました。認知症も進行しきって久しく、あちこち病気を抱えてはいたのですが、3月に亡くなった父を追いかけるように、天に召されました。よく一緒に旅行する仲良し夫婦ではあったので、父が寂しくて呼び寄せたのかもしれません。施設でも大切にされていたので、本人の自慢であった肌もツルツルで、叔父いわく「仏像みたい」な安らかで穏やかな死顔でした。
母は、笑顔の姿しか覚えていないくらい、いつも笑っていました。「私たち(きょうだい)がかわいくて仕方ないんだな」と、感じられたものです。思い出は無尽蔵にあります。
小一くらいだったか、家族旅行で夕食のとき。父も母も「ご馳走ですね」「おいしかー」と言いあっているのですが、私は「うちのごはんの方が、断然おいしか」と、心底の気持ちで言いました。すると母は「あらー、ありがとう。嬉しかねー」と、喜んでいました。またあるとき、テレビに美女の誉高い女優さんが出てきたとき、「やっぱり、きれか(きれい)ねー」と呟く母とテレビを見比べながら、私はこれも心からの想いで「お母さんの方がきれいかよ!」と言いました。そのときの満面の微笑みも忘れられません。多くの男の子と同じように、私にとっては、世界で圧倒的に偉大な存在であり、女神でした。
思えば私の人格や性格の傾向の、ほぼすべては、母の影響を受けています。満身に無償の愛を注いでもらったことが何よりも大きいですが、人を笑わせるのが好きなことは母譲りです。たとえば、ねじ巻き式の目覚まし時計のねじの故障か、ジリジリジリというけたたましい音が、飛び飛びのか弱いチリン、チリンという音になったときに、「あらー、やさーしゅうなんなったばい(とても優しくなられたね)」と擬人的に表現し、私は意表を突かれて笑い転げました。常にそういうちょっとした笑いを仕掛ける人でした。
私たちの情操教育のことを考えていたのかもしれませんが、クラシック音楽が好きで、寝る前の時間には、モーツァルトやショパンのレコードをかけてくれて、これはすごく好きな時間でした。長じて私は、音楽を仕事にしようかと考えるくらいの音楽好きになりました。
驚かせることも好きで、あるときは、ホースをいったん風呂に沈めて片方の口をふさぎながら風呂桶の外に出し、お湯を出してみせる。あるときは、暗闇にわざわざ連れて行って、化繊の服を脱いでパチパチと静電気の光が輝くのを見せる。そんなことをしては「ほら!」と、ビックリさせてくれました。手作りの実験教室のようなもので、私が理科好きに育った土台でしょう。
子どもらしい全幅の愛着から、少しずつ自立に向かって離れていった感覚も、よく覚えています。幼児期は、母の膝を枕に、くっついて耳かきしてもらう時間が好きで、姉や弟と競い合っていました。少し成長して耳かきは自分でやれるようになった四年生のとき、潮干狩り遠足に電車で行った帰りのことです。人吉駅についてみると、ほかのお母さん方は迎えに来ているのに、私の母だけいない。「ま、仕方ないか、別に自力で帰れるし」と、トボトボと自宅に向かっていた人吉橋の上で「わっ!」と後ろから両肩を叩く人がいる。振り返ると笑っている母でした。何かの用があって遅くなったとのことでしたが、そのときのホッとした安心感は忘れられません。
さらに成長して、私は熊本高校に進学し熊本市の伯父の家に下宿して、野球部に入りました。スポ根時代の昔でもあり、一年のうち360日は練習するような厳しい部活だったので、なかなか実家に帰れません。思春期の私はしかし「清々するぜ」と、親元から離れた生活を満喫していました。ところが高二だったか、年末に帰宅したものの、正月早々に練習スタートということで、母の運転する車で駅まで送ってもらい「じゃあね」と颯爽と電車に乗り込みました。ところが、見送る母が少しずつ遠ざかっていくのを見たときに、不覚にも涙がポロリポロリとこぼれてしまったのでした。甘えん坊の幼児期の残滓がわずかに残っていたようです。
さて、葬儀に人が集まると(といっても家族葬で親戚だけでしたが)、亡くなった人の思い出を語りあうものです。父のときも「へー、そうだったのか」というエピソードをたくさん教えてもらったのですが、今回も聞いたことのない話がたくさん出ました。なかでも興味深かったのは、叔父と叔母の思い出話です。叔父は田舎町から熊本高校に進学したので、勉強ができる叔父さんだと思っていたのですが、二人によると「幸子姉さん(母のこと)が、きょうだい5人の中で一番頭が良かったもんね」というのでした。しかし、当時は女性に学歴なんて不要だという文化も根強い時代で、また貧しかったこともあり、看護学校を選ばされたということでした。父が優秀で飛び級をしていたことを、母はよく持ち上げていましたが、本当は高校を諦めた悔しさを抱えていたんだなと知りました。高校にはずっと憧れがあったようで、子育てをしながらNHK学園の通信教育で高卒資格を得ました。そのスクーリングで熊本市に出かけるときには、子ども三人もついていって、勉強中は外で遊んで待ち、終了後は饅頭を買って一緒に電車で帰りました。その往復ともにずっと黙って一心に勉強している姿は、私の基本的な学習への態度を形成したと思います。「勉強しろ」と言わずとも、背中で教えてくれたのです。
一番おもしろかったのは、小学校時代のボス話です。同級生に「三銃士」とあだ名のついた、有名な女子のワルゴロ(不良のこと。悪態をついたり喧嘩をふっかけたり、相当であったようです)三人組がいたのだが、彼女たちに「一の家来」「二の家来」と名付けて指令を出していたのが、母だったというのです。実は小三でしたか、近くの中学校で、私が中学生を窓の下からからかったら、走って降りてきて追いかけられ、とうとう捕まってボコボコに殴られたことがあったのです。いつでも優しい優しい母でしたが、そのときだけは不動明王もかくあるかという迫力で「かわいか息子になんばしてくれるとか!」と怒っていたことがあったのですが、小さい頃からかなり気が強い人だったのだなと知りました。
初めての中間試験で学年一位だったとき、合唱コンクールで優勝したとき、高校野球の公式戦で外野からバックホームで刺したとき、大学に合格したとき、初めて本『小3までに育てたい算数脳』(エッセンシャル出版社)を出版したとき…。みなさんもそうでしょうが、絶対の愛をくれた強い母が、ホクホク顔で嬉しそうにしていることが、いやそれだけが、ただただ自分が見たいものでした。
この一年で、両親をともに失くし、二度の喪主を経験しました。小6でしたか、どんな親孝行をしてほしいかという話になったとき、「なーん、親より後に死にさえすればよかとよ」「そぎゃんそぎゃん、元気でいればよか」と言いあっていた母と父に、最低限の親孝行はできたのかなと思います。一見優等生で育ちながらの、迷走の三浪四流。十代後半から二十代いっぱい失望させ、大いに手を煩わせ、結婚が決まったとき妻に「本当に、うちの子でよかとですか」と聞いた母。いつもずっと、私の心の中心にある太陽でした。
新しい年がやってきます。予断を許さない状況はしばらく続くでしょう。しかし、嵐のときは嵐をしのぎ、大雨ならばそのなかでできる最善を尽くし、晴れ渡る日には喜びを分かち合いながら、助け合っていきましょう。大人たちこそ、一日に感謝し満喫して、元気に歩いていきましょう。
みなさまご家族が、愛と信頼と安らぎに満ちた一年となりますよう。
花まる学習会代表 高濱正伸
🌸著者|高濱正伸
花まる学習会代表、NPO法人子育て応援隊むぎぐみ理事長、算数オリンピック委員会作問委員、日本棋院理事。1959年熊本県生まれ。東京大学卒、同大学院修了。1993年、「メシが食える大人に育てる」という理念のもと、「花まる学習会」を設立。「親だからできること」など大好評の講演会は全国で年間約130開催しており、これまでにのべ20万人以上が参加している。『伸び続ける子が育つお母さんの習慣』『算数脳パズルなぞぺ~』シリーズ、『メシが食える大人になる!よのなかルールブック』など、著書多数。