【高濱コラム】『鉛筆を削る』 2021年7月

【高濱コラム】『鉛筆を削る』 2021年7月

 会社の社長さん方が集まる勉強会の場に呼ばれました。サイボウズの青野慶久さんと交互に講演し、最後に対談するという形でした。青野さんとは、花まる子育てカレッジで対談していたこともありますが、飾らない人柄も素敵で、知的刺激を受けることもでき、すこぶる波長の合うセッションになりました。
 その開催場所が三菱鉛筆株式会社だったのですが、青野さんは、本題に入る前の「まくら」として、子どものとき田舎の少年にとって、高級鉛筆ハイユニがいかに欲しくてたまらないもので、母親にしつこくお願いして買ってもらったものか、という愛媛での思い出を語っておられました。私にも濃密な記憶があったのですが、同じようなネタだとしつこくなるので遠慮しました。
 ところが、お土産としていただいたのが、10H~10Bまでの22本がそろったハイユニ特別セットで、その黒いケースを開いたとたん、ちょうど一曲のイントロだけで若い時代の思い出の場所や空気感がよみがえるように、タイムスリップした感覚がありました。一瞬で戻ったのは、人生で一番欲望をコントロールした三浪時代の東中野の下宿の空間でした。むさっくるしい勉強漬けの日々でしたが、カッターナイフで12本のハイユニを削る時間が、なんとも落ち着くひとときだったのです。日本刀に、正座してポンポンと打ち粉をたたく武士のような気持ちでした。
 ちょうど、勉強会で私がお話ししたのが、脳の部位による役割の違いでした。学術的に正確な分類ということではなく、よく爬虫類脳と言われるような原始的な時代の名残がある部分と、知識をため理性を預かる部分があると考えると、人間の悩みの対処法がクリアになるというような話で、青野さんから「めちゃくちゃ納得しました」と言ってもらえました。人間の悩みの多くは、一言で言えば「わかっちゃいるけどやめられない」という心の壁との戦いです。感情に任せて責め立てるのが良くないことは、頭では「わかっている」。だけど、内からムラムラと沸き立つ情動を抑えきれず、怒鳴り散らしてしまう。こういう失敗は、大多数の親が経験しているのではないでしょうか。
 犯罪などを研究しても、多くは、誰にでもある恨みや怒りの状態(原始脳が燃え滾った状態)のときに、理性でのコントロールができなくなってしまったんだなというケースがほとんどです。頭を叩くことは良くないと子どもでも知っているし科学的には自明なことなのに、ボクシングがなくならないのも、殺人のドラマや小説がなくならないのも、内なる暴力への欲望を消去できない人間が、何とか折り合いをつけた付き合い方をしていると理解すると納得できます。
 私も、この原始的な欲望脳というか情動脳のエネルギーが大きいのか、理性の力が脆弱なのか、昔から「やりたい」と思うことを抑えきれないところがありました。高校時代は野球という軸を持てたことで上手に発散できていたのですが、部活をやめた高三の秋からは、「勉強をやらねばならない」と思えば思うほど逃避に走る自分がいて、女の子を口説いたり、パチンコや麻雀漬けになったり、喧嘩をして警察のお世話になったり、5メートルはあったであろう子飼橋というアーチ橋の頂上で寝そべって新聞沙汰になったりと、おバカな青春を過ごしていました。
 ところが三浪ともなると、友人の大半がいなくなり、さすがにこのままではいけないと痛感。悪い友人には「一年間、絶対に連絡しないでくれ」と言って上京しました。
 今度こそちゃんとやろうと誓い、いま思うと要領の悪い勉強法ではありましたが、コツコツとした学習の日々がなんとか滑り出していました。そんな夜に、ハイユニの入ったプラスチックケースを開けて、12本の鉛筆一本一本をカッターでひたすらに研いでいる作業が、無心になる時間だったのです。取り憑いていた俗なこだわりがスーッと離れる感じでした。ただ、その実感あればこそ、今度はだんだん研ぐことがエスカレートしてしまい、芯が2センチくらい出るようになり、予備校の友人は「高濱の神経質研ぎ」と呼ぶほどでした。しかし、いずれにせよ、心鎮める作業を見つけ、ようやく情動の猛獣を飼いならすことができたのでした。
 この鉛筆研ぎのような、型にはまった単純作業や行動を、ルーティンと呼ぶようです。毎日、同じ時間に、何も考えず決まった単純作業・行動をする。これは心を落ち着かせる効果があるんだよと、知人が教えてくれました。イチローがバッターボックスに入る前の一連の行動や、五郎丸のキック前のお祈りポーズなどが有名でしたが、多くのトップアスリートたちも、独自のルーティンを持っているそうです。それは多分、不安や恐れ・弱気といった情動脳が発信する信号を抑え込み、一番集中できる心の状態を維持する意義があるのでしょう。
 日常生活の中でも、たとえば歯磨き・着替え・寝具への入り方など、寝る前の行動の順番が無意識に決まっている方も多いでしょうし、掃除に熱中したり、洗濯ものをたたんだりしているとイライラが何故か落ち着くというような経験は、誰もがしているのではないでしょうか。

 良き人生の条件が、「わかっちゃいるけどやってしまう」「わかっちゃいるけどやめられない」震源地である情動脳との折り合いのつけ方であるとするならば、ルーティンに代表されるコントロールの仕方を、身につけておく必要があります。もちろんわが子にこそなのですが、まずは大人自身が自分を俯瞰してみて、どういうときに心が安定しているかを見定めることが大切かもしれません。
 私にとっては、その点で日記が最大の武器であり続けました。人を妬む醜い思いや自分の弱さ・厭らしさなど、ありのままに真っ正直に書きつけると、心がスッキリ軽くなり、曲がった見方をしないですむようになりました。そして、息子が生まれてからは、障がいを抱えているからこそ、ずるさのない純粋な心でいる息子の世話をして一緒にいる時間が、決定的に大きな平安をもたらしてくれました。
 話を聞いてもらうこと、ジョギング、音楽や映画にのめり込むこと、思い切り笑うこと、涙を流して泣くこと、ペットにじゃれつかれること、書写…。もとより手法は人によって様々でしょうが、自分のなかには、ときに魔物化して暴れてしまう情動脳が確かに存在することを認めて、そこと上手に折り合いをつけることは、不安な時代だからこそ大事なことかもしれませんね。

 さて、夏到来。子どもたちにとって、各学年一度きりの夏休みです。コロナの性質もあらかたわかり、ワクチン接種もかなり進んで、昨年よりはできることが多くなりそうです。コロナだけでなく水分補給など夏の基本的な体調管理にも気をつけながら、大自然の中などの価値ある体験に溢れたひと夏となりますように。    

花まる学習会代表 高濱正伸


著者|高濱 正伸

高濱 正伸 花まる学習会代表、NPO法人子育て応援隊むぎぐみ理事長、算数オリンピック委員会作問委員、日本棋院理事。1959年熊本県生まれ。東京大学卒、同大学院修了。1993年、「メシが食える大人に育てる」という理念のもと、「花まる学習会」を設立。「親だからできること」など大好評の講演会は全国で年間約130開催しており、これまでにのべ20万人以上が参加している。『伸び続ける子が育つお母さんの習慣』『算数脳パズルなぞぺ~』シリーズ、『メシが食える大人になる!よのなかルールブック』など、著書多数。

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