【65】ショーシャンクの空より青く

 思い出すのは数年前。トイレの個室の全てに鍵がかけられるイタズラが発生した。気付いたのは最後の鍵閉めの時。園児用トイレのドアを外側から手を伸ばして鍵を閉めていることからおそらく高学年、時間的にも花まるの子以外には考え難い状況だった。
 次の授業日に「こんなことがあった、心当たりがある子は責めないから名乗り出てほしい」と伝えた。名乗り出る子はいなかったが、やっているのを見たという子が二人現れて、同じ子の名前を挙げた。二人は異学年で接点も少なく、共謀してその子を陥れようとしたなんてことは考えられなかった。だからきっと、その子がやったのだと思う。教えてくれた子の一人は、注意できずごめんなさいと私に謝った。
 犯人探しがしたかったわけではない。ただ、園児がトイレに入れず困る状況を考えてほしかったし、何より私は、自ら名乗り出てほしかった。誰にでも間違えることはあるし、もしかしたらそんなことをしてしまった背景にはストレスを抱える状況下にあるのかもしれない、そうだとしたら掬い上げたい、その思いだった。
 裸足で泥遊びばかりしていた彼は、五年生で急に大人びた言葉を使うようになった。直角に変わった彼の表向きの姿。きっと無理をしていたのだと思う。彼は元来そんなことをする子ではなかった。だからこそ私は、彼からの自発的な告白を待ってしまった。
 それから半年が経って、卒業を迎えた。「私に言っておきたいことはない?」私は確かにそう聞いた。「ありません。」それ以来、私は彼に会っていない。

 あの時私は、すぐに、やったんだよね?と聞いてあげれば、彼は吐けたのかもしれない。楽になれたのかもしれない。その思いが今でも強く過る。吐き出せる関係を築けなかったことも後悔の一つ。
 彼は今そのことをどう思っているのだろうか。覚えてすらいないのかもしれないし、ずっと引きずる傷を負っているのかもしれない。後者だとしたら、それは確実に、私の過ち。

 何の間違いもせず、正しい道を歩き続けることは難しい。ああすればよかった、こうしてあげればよかった、そんな過ちや後悔を持たない人間などいない。忘れようとすればするほど、頭から離れず心が蝕まれることもある。
 自分に非がないのに背負わされる理不尽もあるかもしれない。なぜ自分が、と腐りたくなることもきっとある。
 そんなどん底にいても、歯を食いしばって前を向ける強さ。それこそが、ひとが生涯をかけて培うべき人間力だと、私は思う。
 映画「ショーシャンクの空に」で主人公は、冤罪により刑務所に送られますが、理不尽で腐敗した環境下でも、希望を捨てず前を向いて進み続けます。ポスターにもなっている、大嵐の中両手を広げ天を仰ぐ後ろ姿は、あまりに逞しく、美しい。腐った環境下でも前向きに生き抜いてやったぜ!そんな叫びが、誇り高き背中から伝わってくる。

 そして何より、間違えること、後悔することは誰にでもあって、それを0にしようとすることに意味はないということ。過ちを糧にして乗り越える力こそが、その人の魅力、厚みを作り出す。
 「論語」の一節に「子曰、過而不改、是謂過矣(過失を犯してそのままにしておくことがほんとうの過失というものだ)」とあります。つまりは、過失を犯してもそれを改めさえすれば過失とはいえない、ということ。
 西郷隆盛も「過ちを改めるには、自分が間違いを犯したと自覚すれば、それでよい。そのことをさっぱり思い捨てて、ただちに一歩を踏み出すことが大事である」という言葉を残しています。
 どんなに優れた偉人にも過ちはあり、乗り越えたからこそ、こういった価値のある言葉を生み出せたのでしょう。そして今世にも残っているということは、それだけ多くの人が間違え、その言葉に救われてきたということ。

 彼がもしやってしまったことを後悔し、戒めとしてくれているのなら、それで十分。今後に生かしてくれるのなら最高。それを糧に、強く逞しく優しく生きてほしい。
 そして、ショーシャンクの空よりずっとずっと青い空で、自由に羽ばたいてほしい。
 だから私は、今から彼に連絡してみようと思う。

 

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