【32】目に見えないもの
―ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない。―
これは、世界中で愛されている不朽の名作『星の王子さま』(サン=テグジュペリ)に出てくる言葉です。私がこの本に出会ったのは中学2年生の時。授業の課題図書でした。読書が好きだった私は、表紙のかわいいイラストと「星の王子さま」というタイトルに心をわくわくさせてこの本を開いたことを覚えています。しかし、その気持ちはすぐに打ち砕かれました。抽象的で何を言いたいのかわからない。当時の私にとっては難しく感じる内容だったのです。それでもなんとか読破し、授業で先生やクラスメイトと『星の王子さま』について対話を重ねました。その当時、意味がわからないなりにも一番心に残ったのがこの言葉です。
先日、ふとこの言葉を思い出し、その言葉の重みをかみしめた出来事があります。
年中クラスの思考実験でのことです(思考実験とは、ものそのものに触れ、実際に手をたくさん動かしながら考える、体験の時間です)。その日のテーマは「黒に描く」。黒画用紙にクレヨンで好きなように絵を描く、とてもシンプルな思考実験です。子どもたちには自由に楽しんでほしいという想いから「白い紙に描くのと黒い紙に描くのでは何が違うのか、楽しみだね!」と一言だけ伝えました。何色を使うのか、何を描くのかは自由です。
「こいのぼりを描く!」とAちゃん。黒いクレヨンを手に取り、線を描き始めました。「あんまり見えないね。でも、よーく見たらみえるよ。」黒画用紙に黒いクレヨンで描くと、しっとりしたクレヨンの質感と艶がよく伝わってきます。こいのぼりの輪郭を描いたら、次は色塗り。水色を手に取ったAちゃんは力強く、大胆にクレヨンを動かします。黒画用紙の半分ほどが水色で埋め尽くされました。「この上に黒で描いてみる!」Aちゃんはまた黒いクレヨンを掴んで、先ほど塗った水色の上に模様を描き始めます。「(黒色が)よく見える!もう一回!」Aちゃんはその上に水色をもう一度重ねました。「ほら!(黒色が)見えなくなった!もう1回!」Aちゃんは黒で線を描いては水色を上から重ねて塗りつぶす、というのを何度も繰り返します。
AちゃんのとなりではBちゃんが黒画用紙の上に様々な色でくるくると丸を描いています。「これは、赤!」Bちゃんはクレヨンを手に取るたびに、クレヨンに書かれた色の名前を読み上げていました。それから、その色で円を描きます。赤色で円を描いたあと、その色をじーっと見つめるBちゃん。黒画用紙に赤いクレヨンで描くと、白画用紙に描いたときとは異なる色に見えます。赤色に黒が混ざって少し落ち着いた茶色のようです。きっとBちゃんもその色の違いを味わっていたのでしょう。「次は、もも、いろ!」「これは、だ、い、だ、い、いろ?だいだいいろって言うんだ!」クレヨンに書かれた小さなひらがなを一生懸命読み上げては、たくさんの丸を描き、Bちゃんの画用紙は色とりどりの丸で埋め尽くされました。
黒画用紙の上では黒いクレヨンの色がしっとりつややかに見えるという発見。色濃く水色で塗ってから黒いクレヨンを重ねると、黒色がくっきり見えるという驚き。鮮やかな色も黒画用紙の上では落ち着いた色合いになるという気づき。初めて知った色の名前との出会い。Aちゃんの作品もBちゃんの作品も一見すれば、黒画用紙に絵を描いただけのように見えるかもしれません。しかし、その作品が出来上がるまでの過程には、彼女たちの心を揺さぶる瞬間が何度もあったことでしょう。
思考実験の目的は立派な作品を作ることではありません。その時間が発見や学びに溢れ、心がくすぐられているかが何よりも大切です。『星の王子さま』で「いちばんたいせつなことは、目に見えない」と言われているように、子どもたちが何を感じ、どんなことに心動かされたのか、その目に見えない部分にこそ、学ぶ楽しさや面白さを知るきっかけがあるのだと思います。
目に見えない子どもたちの心の変化を見逃さぬよう、様々なことが新鮮だった子ども時代の心で、子どもたちと共に授業を楽しみ、心と心で向き合ってまいります。