【116】正しさよりも

 私の教室では、みんなで一斉に作文に向き合う時間を設けています。子どもたちに伝えていることは色々とありますが、その中でも私が大切にしているのは”書きたいことを書きたいように書く”ことです。
 作文というと、いつ誰がどこで何をどうしたと分かりやすく書くとか、起承転結を分かりやすく書くとか、そういうことを私は学校で習ったような気がします。学校の先生が言うことも確かに大切なポイントではあるのですが、それは高学年以降、成長とともに徐々にできるようになれば良いものと私は考えています。

 私が小学生の時に書いた作文を母が大切に取っておいてくれているのですが、大人になって読み返してみると、どれも“きちんとしている”作文ばかりでした。なぜならそれらの作文は、私が書いた作文ではなく、当時両親が添削に添削を重ねて完成した”作られた”作文だったからです。
 当時の私にとって作文とは、”きれいな文を決められたように書くもの”と思っていました。実際、学校の先生は私が書いた(両親が添削をしてくれた)作文に、”よく書けているね”とコメントをくれていましたし、それによって私はこれが作文の正しい書き方なのだと思っていました。しかし、書くたびに添削に添削を重ねられ続けてきた私は、文を書くことが全く好きではありませんでした。何を書くのが正解なのか、どんなことを書いたらいいのか、よく書けているねとコメントをもらうにはどうしたら良いのかと考えてしまい、特に読書感想文はできればやりたくない宿題でした。

 花まるで書く作文の時間は、私のような窮屈な思いを子どもたちにはさせたくないと考えています。”書きたいことを書きたいように書く”ということは、誰かに教わって書くものではなく、自分の心に問いかけて出てきたありのままの言葉を書くことです。子どもたちにはよく、
「先生たちはみんなの頭や心の中を覗くことができないから、みんなが日々何を思ってどんな風に過ごしているのか知りたいんだ。どう思った?どんな風だった?と自分の心に問いかけながら書いてね。」
と話します。例えばいざ作文を書くというとき、
「何が好きなの?」『いぬ』「どこが好きなの?」『かわいいところ』「じゃあそれを書いてみよう」
という会話をしたとして、その子が
「いぬがすきです。かわいいからです。」
と書いたとします。果たしてそれはその子の作文なのでしょうか?書く直前に誰かの言葉で上書きされてできあがった作文は、多かれ少なかれ”作られた”部分が混じり、その子らしさが薄くなってしまっているように私は感じてしまいます。そのため、教室にいる講師には、作文を書く時間だけは極力子どもたちに話しかけないでほしいと伝えています。純度100%の子どもたちのありのままの言葉を知りたいからです。(もちろん、子どもたちから何か質問があれば答えます。)
 実際、子どもたちは静かに作文を書き始めます。そして書き終わったときには、その作文を受け取った講師と会話をし、講師はその作文に書ききれなかった子どもたちの思いをありったけ聞くのです。自分の作品を受け取った人との会話を楽しむことで、“書いてよかった”“楽しそうに読んでくれてうれしかった”と感じ、さらに“作文って書きたいように書いていいんだ”“書くってこんなに楽しいんだ”と感じてほしいのです。

 先日一年生が書いた作文には、「わたしはいぬがすきです。よしよしできるしさんぽができるからです。」と書かれていました。今の時期しか書けないとっておきの作文だと思いませんか?大人になってから書こうと思っても、このような言葉選びではもう書けません。その子の“今”が存分にこの作文には表れていると感じます。
 字の間違いや助詞の間違いなど様々なミスもあるかと思いますが、学年が下になるほど、いわゆるかしこまった“添削”はしすぎないようにしています。テクニックの部分は後からいくらでもついてくるからです。低学年のうちは“正しさ”よりも、その子の“今”が表れているか。今その瞬間にしか書けないかけがえのない大切な作品が“作られた”ものにならないように、子どもたちの“今”を大切にします。

 

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