【113】モラルとルール

 友人が「あの子は私の友達と一緒にでかけると、調子にのるから連れて行きたくない」と言うのです。気が大きくなり横柄な態度をとるから嫌なのだそうです。以前、一緒にショッピングモールに行った際、ソファに座ろうとしているところを友人は、「迷惑だから止めてって、いつも言っているからね!」ときつい口調で娘に吠えたのです。母親だから、娘の行動が手にとるように分かるのでしょうね。未然に防ぎたかったのだと思います。気持ちは十分に理解できますが、まだ何も起きていないのです。ソファに座るだけでこうなのであれば、日常的に「あれはダメ」「これもダメ」と言われているに違いありません。
 わが子を想い、事前に伝えることも愛。しかし子どもはすぐに忘れる生き物なので、同じことを繰り返し言い続けていると、愛が不満に変わるのだなと感じたのでした。「モラルやルール」に縛られている大人は案外多いのかもしれません。叱られたり反省したりしながら、相手がどう感じているかを学んでいくわけですが、そういう経験をする前に注意してしまうことはよくあること。友人も人の目を気にしてばかりで、「約束が守れたね」「他の人のことを考えて座れたね」と言えずに苦しんでいます。ですが、想いはわが子にちゃんと伝わっていました。友人が席を外している間に、彼女の子が教えてくれました。「ジャンプしてソファに座ったら、他の人の迷惑なの。だからこうやって座るんだってママが教えてくれたよ。幼稚園でもね、先生に褒められたんだ」と。友人が直接褒められなくても、伝えたかったことは本人に吸収され、第三者によって認めてもらう経験につながっています。もちろん、母から直接褒めてもらった方が何倍も嬉しいとは思いますが、親として反省し心配するほど、ダメな子ではないということが分かり、友人も少し安心した様子でした。

 年中思考実験「折り染め」で、紙を染めることよりも、手で色水をパチャパチャすることに興味をもつ子がいました。この時、私は見守ることにしましたが、本人はよくても他の子にしたらよくない場合があると、あとから感じたのです。こだわりが強い子は、友だちの絵の具が自分の作品にハネたら、ショックをうけるでしょう。作品を汚されたと思う子もいるでしょう。創作の場において、みな同じように満足するためには、やはりルールが必要なのだと思います。
 この子が汚れた手をキレイにしたくなり、先生の服で拭こうとしました。そういう遊びでない限り、その行為はモラルに欠けていますよね。自分は無邪気に遊んでいるつもりでも、相手の感じ方はそうではないこともあります。もしかしたらタオルで拭けばいいことに気づいていないのかもしれません。そういう時は教えてあげればいいだけのこと。
 「手が汚れた」
 「手が汚れたね。それでどうしたいの?」
 「手を拭きたい」
 「そっか、手を拭きたいんだね。タオルどうぞ」
 子どもの言いたいことが分かったとしても、あえてやりとりをすることで学びにつながります。ことばのキャッチボールという点においても、会話力を育む良い機会。特に幼児期は大事にしてあげたいと思っています。
 結局この子は、創作に夢中になり色の変化に感動している周囲の姿をみて、やりたくなり、パチャパチャ遊びを止め、創作の中で発見する喜びや学びを得て成長していきました。幼児期のモラルやルールは、仲間と夢中になったり、発見や感動を共有したりすることで自然と身に着けているのかもしれないですね。

 いつでも子どもたちには、じゆうな発想でのびのびと遊び学んでほしいと思っています。ただ「好き勝手」と「じゆう」は違います。私たち大人が子どもたちに期待することは、「モラルやルール」の中に存在する「じゆう」なのでしょう。ただモラルやルールを教えるのではなく、子どもたち自身が、経験や感じたことから得たものでないと、子どもたちにとって価値のある「じゆう」も得られないのだと思うようになりました。「モラルやルール」をどう伝えていくかは、大人の課題でもありますね。皆さんと一緒に悩み、考えながら、一人ひとりと丁寧に向き合っていきたいと常々思っております。

 

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