【高濱コラム】『心の魔法』 2022年5月

【高濱コラム】『心の魔法』 2022年5月

 3月の半ば、自宅に小包が届きました。開けると2冊の書籍。それは、花まるを始める前の、一塾講師時代の教え子Hくんからのものでした。その塾は、私が20代後半に、初めて講師として働いた塾で、一つの授業でも3~4人くらいしか入れない、小さなアパートにありました。主に中高生が来ていたのですが、生徒からの評判が良かったそうで、どんどん仕事が増えていきました。そして、2年くらいたった頃、彼を教えることになりました。塾長によると、「ちょっと、一人難しい子がいるんだけど、看てもらえるかな。何か月も学校に行けていない子なんだって」ということでした。会ってみると、緊張し怯えた表情で、一言で言えば暗い。私は、すぐに「何を教える」とかではなく、「心を癒す」ことからだなと直観しました。そして、雑談メインで、少しでも笑顔が増えることを目標に、冗談を言い、彼のジョークにも大笑いして応えるという時間を過ごしました。すると1~2か月で、学校に行けるようになりました。
 「よし、教育で生きていこう」と決めて最初の武者修行として始めた塾講師の道。この出会いは、「やっていけるかな」という私自身の不安を吹き飛ばし、「こういう子たちの力になれそうだな」という自信になりました。これには後日談もあって、その後彼が高校生になったとき、予備校講師や幼児教育などに世界を広げていた私に、連絡先など伝えていなかったはずの、彼のお母さんから連絡がありました。再び学校に行けなくなった。いろいろな先生に教えてもらったりしたのだけれど、本人が「高濱先生でないと無理だと思う」と言っている、とのことでした。そこまで求められたら、やるしかありません。3年ぶりくらいで、まったく同じこと、つまり知ではなく心に訴えかけるアプローチをしました。すると、ほどなくまた学校に行けるようになったのです。このことで、私の教育者としての自信は確信に変わりました。
 そのHくんからの小包だったのです。大学で働き始めたということは知っていたのですが、いまや某大学の准教授になり、初めての著書を出版したので、送ってくれたのでした。手紙も添えてあり、いまがあるのは先生のおかげだと書いてありました。「あのときのあいつがなー」と、しみじみと感慨深かったです。

 さて今回は、その「自信」がテーマです。最近の講演会で、リアクションが多いキーワードが「魔法」です。
 前にも書いたことですが、自信とコンプレックスは、表裏一体です。ある日突然、心がどちらかに染まると、それはずっと、たいていの場合は死ぬまで染まった色が抜けない。たとえば私は、小学2年生まで学校で話ができないし自分を出せない人間だったのですが、3年生で変身しました。担任となった聖母のごときふくよかで笑顔の素敵なN先生が、一言で言うと「私のことを好きなんだなー」と信じさせてくれる雰囲気に包まれた方で、そのおかげもあってか少しずつ自分を表現できるようになったのです。ちなみに長年の経験で、同じように1~2年生のときは地味で自己表現が控えめな子が、3年生で一気に活発になる例をたくさん見てきたので、年齢相応の社会性を身につけてきていたということかもしれません。
 さて、ある日、3×3くらいのマス目の中に、大小合わせて長方形は何種類あるでしょうか、という「場合の数系パズル」が、テスト最後の思考力問題として出題されました。私は深く集中し、「あ、みんなはここを数え損ねたりするかもなー」などと考える余裕もありました。そして返却の日、N先生は、「テストを返すけど、まだしまわないでね。最後の問題の解説をするから。この問題ができたの、高濱くんだけだったのよ」とみんなの前で言ってくれたのです。その瞬間、社会恐怖に近い理由で自分を覆っていた鎧のような殻のようなものに、ヒビが入りました。そして、追い打ちをかけるように、「そうそう、職員室で聞いたら、学年全体でも高濱くんだけだったみたいだよ」と言ってくれたのです。取り乱しそうなくらいの喜びが体を満たしました。その一言で、私を覆っていた殻は破れ、伸び伸びとした元気ないまの私が出現しました。給食の時間に流れる音楽に合わせて踊るようになり、「俺、パズル得意だから」と言うようになり、あだ名が「博士」になりました。このとき自信がついた私は、後に、何冊ものパズル本を出すまでになりました。いまだに、ちょっと新聞に掲載されているような問題や中学入試の問題でも、誰かに答えやヒントを言われるのがすごく嫌で、自力でやり遂げたいこだわりの強い人間のままです。
 同じことで、まったく逆のことも、たやすく想像できますよね。同じタイミングで、たとえば自分だけができなかった。そのときに、「みんなできたよね、この問題。高濱くん、君だけだよ、こんな簡単な問題ができないのは」と先生から言われたりしようものなら、たちまちコンプレックスという色で、心は染め上がります。一言の威力。そこまでひどい先生はなかなかいないよ、と思われるかもしれませんが、ちょっとした憐れんだ視線、態度、大人の言葉のニュアンスから、コンプレックス状態に転落することは、めずらしくないのです。そして、それは90歳を超して死ぬ間際まで「ワシは、小さい頃から、そういうのは苦手だったんだよな」と思い込んで生きていく人間になるのです。
 どうでしょうか。これぞ「魔法」ではないでしょうか。証明やエビデンスがあるのではない。あるとき、あるエピソードの瞬間に、心に魔法がかけられるという状態そのものです。

 冒頭のHくんの件で言うと、私が困っている少年の支えになったことは確かですが、しかし、私は私で、彼の苦しみに逃げず直面し、若い情熱だけで格闘し、乗り越える経験を共有できたことで、一生を教育に賭けようと誓う一押しをもらった「成功体験」になったのでした。誰かの苦しみに真剣に寄り添うことは、実は自分こそ幸せをもらえる、ということでもあるでしょうし、教育を仕事とするときの間違いない喜びでもありましょう。
 そして思うのは、成功体験もまた、「そのことによって心に『自信の魔法』をかけてもらえる体験」と定義しても良いくらい、心に長期の力を与える経験なのだと思います。
 新生活の季節。働き始めた若者たちも、不安がたくさんある頃でしょう。そんな彼らにも、成功体験が訪れますように。そして、新学年の子どもたちにも、一つでもそのような体験の機会が訪れますように。
 私たち大人は、一言がどれほど一生に影響してしまうのか、という自覚を持って、子どもたちに、「自信の魔法」をかけてあげられる人でありたいですね。

花まる学習会代表 高濱正伸


🌸著者|高濱正伸

高濱 正伸 花まる学習会代表、NPO法人子育て応援隊むぎぐみ理事長、算数オリンピック委員会作問委員、日本棋院理事。1959年熊本県生まれ。東京大学卒、同大学院修了。1993年、「メシが食える大人に育てる」という理念のもと、「花まる学習会」を設立。「親だからできること」など大好評の講演会は全国で年間約130開催しており、これまでにのべ20万人以上が参加している。『伸び続ける子が育つお母さんの習慣』『算数脳パズルなぞぺ~』シリーズ、『メシが食える大人になる!よのなかルールブック』など、著書多数。

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