【22】世界の捉え方

 子どもの頃、私は世界の国々が大好きでした。保育園の時に買ってもらった『ねずみくんのぬりえ 世界の国旗』にのめり込み、夢中で国旗の塗り絵をしながら国名を覚えました。また、偕成社出版の「世界の子どもたち」シリーズ全35巻―様々な国の子どもたちの生活が写真と文章で描かれている本―を図書館で何度も借りて読んでいました。返した日に次の予約が入っていなければその場でまた借りて、貸出カードに私の名前が3連続で書かれているということもありました。
 世界の国々とその暮らしを知って、幼心にいちばん衝撃的だったのは、「こんなにも見ている世界が違うのか!」ということです。食べるものも着るものも、大事にしているものも抱く夢も、千差万別、実に色とりどりでした。どれも自分とは違って、どれも魅力的に感じたのを、今でも覚えています。
 グーグ・イミディル族というオーストラリアの先住民族には、「右」「左」「前」「後ろ」を表す言葉が存在せず、「東」「西」「南」「北」で位置や方向を表現する言語体系を持っています。
 ヤノマミ族というアマゾンの先住民族は、赤ちゃんが生まれた時に、人間の子どもとして育てるか、精霊として土に埋めて森へ返すかを決める、という死生観を持っています。
 私が中学生の時に読んだノンフィクション作品『あなたの夢はなんですか?』(著・池間哲郎)の中で、フィリピンのゴミ捨て場で暮らす少女は「私の夢は大人になるまで生きることです」と答えていました。
 いずれの世界の捉え方も、不便だとか、間違っているとか、かわいそうだとか、そういうことではなく、それぞれの世界の見方で懸命に、一度しかない人生を生きているのだと、私は感じています。それらを知ることが、幼い私と遠く離れた場所にいる彼ら彼女らをつなげてくれました。
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 子どもたちの世界の捉え方も、本当におもしろく、魅力的です。
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 花まる年長クラスのAくん。少しシャイなところもありますが、周りに優しいオーラを放つ男の子です。その日は、授業の後半で行う思考実験で色鉛筆を使う回でした。子どもたちは先に色鉛筆を机の中に準備して、授業が始まりました。少しして、運筆のページのときにふと見ると、Aくんが使っている筆記用具はどうやら黒色の色鉛筆のようでした。私が気づいて、
「あれ、それ色鉛筆?」
と聞くと、Aくんは、
「うん」
こくりと頷きました。
「色鉛筆を使おうと思ったんだね」
Aくんからどんな答えが返ってくるだろうかと考えながら私が言うと、こんな言葉が返ってきました。

「全然使われてなかったから」

確かに、黒色の色鉛筆は、ほかの色に比べて出番が少ないです。私が国旗の塗り絵に夢中になっていたときに使っていた色鉛筆も、赤や青や緑がどんどん短くなっていく中で、黒色は比較的長いままだったことを思い出しました。目の前にケースの中で並んでいる色鉛筆がある、という光景は私にもAくんにも同じですが、彼はそれを、実に彼らしい、優しい捉え方で見ていたのでした。
「なるほど。それは素敵な気づきだね」
「うん」
先ほどよりもいくらか自信を持った顔で頷くAくん。
色鉛筆を先に準備した回だからこそ彼が気づけた世界の捉え方をその日は大切にしてほしいと思い、いつも通り持ち方と濃く書くことは意識して行うように伝えて、授業を続けました。
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 眼前に広がる世界は同じでも、それをどう捉えているかは人によって違います。それは、遠い国の人でなくても、ひとつ隣にいる人でも違います。
 赤ちゃんが、たまごボーロとビー玉を名称で区別するわけではなく、どちらも「手で持てて口に入る大きさのもの」と捉えるように(だから「わー、食べちゃダメ!」となりますが)、子どもたちは、語彙や知識がこれから増えていく段階にあるからこそ、大人にはもうできない世界の捉え方ができます。「あなたにはそんなふうに世界が見えているんだね」とおもしろがりながら、子どもたちの今しかできない世界の捉え方を尊重して接していたいと思っています。

 

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