【106】便利で失うもの、不便で得られるもの

 「あれ?ん?」ある教室の扉は昔ながらのドアノブ、つまり自動ドアやレバー式のノブではなく「カチャ」と回して開けるタイプ(丸ノブ)の扉です。そのドアノブを上手く回せない子が年々目につくようになってきました。幼児であればまだ力が無いから、ともなりますが、それは小学生にも見られます。握力はあっても片手で「捻る」ができず、ドアノブを両手で握り体ごと傾けて何とか開ける、といった具合です。
 一方で、随分と簡単に開けているものがあります。水筒です。一昔前は水筒の蓋はコップを兼ねていました。クルクルと回して蓋を開け、そこにお茶を注ぎ、飲む。そのような水筒が主流でした。今もあるにはありますが、ボタンを押すとパカッと蓋が開く、ワンタッチで手軽に飲めるタイプを多く目にします。少しカテゴリーが変わりますが、他にもエスカレーター等、労力を要さず簡単にできることが増えてきたなと気づかされます。

 さて、これまた年々ですが、教室にて「数量感覚の乏しさ」を感じることも増えてきました。低学年であれば、例えば、100を□こあつめると500になる、300の半分は?といった問題。高学年であれば「100÷30」に対して1や7など見当違いの商を立てる、「1000分の500」を見てすぐに「2分の1」が出ない、といったものです。このような躓きをする子は少なくなく、実際に保護者の方からも上記のような問題で苦戦している、という相談を頂くことが増えています。上記に当てはまる子どもたちや保護者の方と話をしていると「現金で買い物をしたことがない」ということが共通項としてあげられます。
 これを受けて自身の小学生時代を思い返すと、教科書以上の生きた教材が日常にあったように思います。まず思い出されるのは駄菓子屋。当初はドキドキしながらお小遣いとしてもらった100円を握りしめ、恐る恐る10円ガムを3つ買う。すると10円玉が7枚返ってきます。「まだ買えそうだけど、どうしよう…」一つ選んでは手持ちの小銭を見せ「これ買えますか?」と聞くぎこちない買い物。おばあちゃんに「あんた、これだったらまだ買えるぞ」なんて教えられながら、段々と自分で計算しながら買い物ができるようになりました。遠足の準備もそうです。いかにたくさんのお菓子を300円に収められるか、友だちと競うようにして生き生きと頭の中で足したり引いたりを繰り返していました。
 しかし今、小学生が小銭で買い物をする機会は減っているように感じます。そもそも遠足のおやつは禁止だったり、全員に300円のお菓子詰め合わせパックが学校側で用意されたりと、自分で頭を使って買い物をする機会がない、という実情。更には、カードでの支払いが子どもの買い物環境にも入ってきているようです。ある教室にいた低学年18人に「お金で買い物をしたことがある人?」と聞くと4人が手を挙げ、「カードで買い物をしたことがある人?」と聞くと9人が手を上げました。またある日、教室に電車で通塾している6人の子どもたちへ「切符を買っている?それともカード?」と聞くと、切符を買っている子は1人だけでした。予めチャージされていれば、運賃を気にすることなく電車に乗ることができます。子どもの頃よく電車に乗ったものですが、今と違って当時はまだ交通系ICカードは主流ではなく都度切符を買っていました。券売機の上にある運賃表を見て降りる駅を探し、そこにある金額を確認し、200円だったら100円玉を2枚いれる。更には運賃表には大人料金の半額である半額の子ども料金が並べて載っています。「200円は400円の半分なのか」何気なく、でも何度も目にしているうちに何となく「この数字の半分はこれぐらい」ということを掴んでいたと思います。都度切符を買っていたことの恩恵です。
 エスカレーターやカード等、現代は手間・労力・時間を要さないものが無数にあります。しかし、それ故に失っている力がある気がします。体力維持のために敢えて階段を使っている方も多いのではないでしょうか。子どもに対しては、不便さを敢えて仕組む、そんなことが必要だと感じています。

 

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