【T17】母という名の灯台
先日、新年度生向けの体験授業を実施しました。体験授業の際にお母さんたちとお話をしているなかで、多く寄せられる質問があります。それは「うちの子は、なかなか私から離れることができないのですが、大丈夫でしょうか」というものです。園や学校、公園などで周りを見渡すとわが子だけが自分から離れようとしない姿を見て、「他の子と比べてはいけない」と頭では分かっていても、どうしても不安になってしまう気持ち。これは、親心ゆえなのだと思います。
体験授業当日のことです。事前のお話通り、なかなかお母さんのそばを離れようとしない年長のA君。他の子どもたちは着席していて、気が付けばわが子だけが、自分から離れず着席していない状態でした。その状況を見て、ますますお母さんの表情は曇っていきました。けれど、A君はそんなことはお構いなく、お母さんのそばから離れようとはしませんでした。そこで私から「じゃあ、ここで授業をやろう」と提案をしてみました。元々設置しておいたA君の席はそのまま残しておき、お母さんの隣にA君専用の席を設置しました。授業を始めてみると、みんなと同じ席にはいないけれど、他の子と同じように問題を解き進めているA君。1問終わるたびに、嬉しそうな表情をして「ほら、見て!」とお母さんに笑いかけます。その姿を見て、お母さんの表情に少しずつ光が差し込みはじめてきました。
授業も中盤に差し掛かったとき、「あっちでみんなといっしょにやってみる?」と聞いてみると小さく首を縦に振ったA君。一歩踏み出した瞬間でした。その後も授業に取り組みながらも、ことあるごとに「ほら、できたよ!」と嬉しそうにお母さんの方へ視線を送るA君。「前を向きなさい…!」とお母さんの小さなツッコミもありましたが、お母さんも表情は非常に明るいものになっていました。その表情に呼応するように、A君はよりいきいきと授業に取り組み始めました。
そんなA君の一歩踏み出した成長もあった授業。もう一つ、あることに気が付きました。それは、そこにいたほとんどの子が問題を解き終えた瞬間や、花まるをもらった瞬間にお母さんの方を嬉しそうにチラッと見ていたことです。
なぜ、子どもたちはお母さんの方を見るのでしょうか。これは「お母さんが見てくれている」ということへの安心感なのだと思います。ある日のことでした。家族で公園に遊びに出かけたときのことです。そこで、サッカーボールで遊んでいた男の子とお父さん、そしてベンチに座ってそれを眺めているお母さんがいました。男の子は小学生くらいでしょうか。お父さんからリフティングを教えてもらっていたようです。2回、3回と連続でリフティングができるようになり、目の前にいるお父さんが「いいぞ!いいぞ!」と大喜びしていました。もう一度リフティングをするときに、彼は「お母さん、見ててね!」と言い、リフティングを始めました。その後もリフティングでの遊びは続き、ことあるごとに彼は「お母さん、見ててね!」と言っていました。お母さんはその姿を見て、ニコニコと笑っているだけでした。
体験授業の子どもたちが、花まるをもらった瞬間や問題を解けたときなど、随所でお母さんの方を見る姿。公園でリフティングをしていた彼が発した「お母さん、見ててね」という言葉。それは「お母さんの笑顔」があることでの安心感であり、同時に「お母さんには笑っていてほしい」という気持ちの表れなのだと思います。
体験授業のときに、お母さんのそばを離れることができなかったA君。彼はきっと一番近くで自分の頑張りを見てほしかったのでしょう。その気持ちは、子どもたちの誰にでもあるもの。だからこそ、他の子どもたちもことあるごとに、お母さんの方を振り向いているのではないでしょうか。「自分のことを見てくれている」存在は、子どもたちにとっては大きな安心につながるのだと思います。まさに「あの光が見えるから大丈夫だ」と、灯台の光を確かめながら沖を進んでいく船のように「お母さんがいるから大丈夫だ」と子どもたちは思っているのでしょう。子どもたちが進む道を照らし続けてくれるお母さんの存在があるからこそ、子どもたちは頑張ることができるのです。まさに、子どもたちにとって、お母さんは灯台のような存在であり、安心できる源なのです。
そんな子どもたちにとって、灯台のような存在でもあるお母さん。それゆえに、お母さんたちがいつでも温かく、子どもたちの道しるべになり得る光を届けるには、お母さんたちの安心が必要なのだと思います。つまりは子どもたちの健やかな成長には、母の安心が大切なのだと思います。
私にも1歳7か月を迎える息子がいます。まさに、後追いの真っただ中で、起きてからから寝るまで妻のもとを離れようとはしません。私が抱っこをしようものなら「やー!」と強い意志を示しています。一方で、妻が少しでも体調を崩すと自然と息子もいつもよりおとなしくなっていることもあります。まさに一心同体なのではないかと思うほどです。それくらい子どもとお母さんという存在はつながりあっている存在なのだと思います。
だからこそ、子どもたちが、「もう自分一人で歩いていけるよ」と思えるまでにはもう少し時間がかかってしまうのかもしれません。そして母という灯台が明るく照らし続けてくれる道の先には、子どもたちが大人になったときに、大切な人が歩く道を照らす灯台のような存在になっている未来があると思います。
とはいっても、大人になっても母という存在は偉大なものです。子育てで困ったことがあれば私も妻も「お母さんに聞いてみようか」とすぐさま連絡を取ります。「こうすれば大丈夫だよ」と教えてもらった内容はネットで調べた情報と同じでした。ネットと同じ情報だったとしても、母からの「大丈夫だよ」という一言の方が大きな安心感を得られます。それくらい「母」という存在は大人になった今でも灯台のごとく、私の歩く道を照らし続けてくれているのだと思います。私も、自分の息子や花まるの子どもたちの歩く道を少しでも明るく照らせる存在になるように。そう胸に誓いました。
※文字数オーバー(事前の相談あり)