私が出会う子どもたちのなかには、いわゆる学校などの集団生活での評価軸では認めてもらえにくい子もいます。
試験のような「正解」「不正解」がないアートの世界では、「自分がどう感じたのか」ということがすべてです。「自分は何に興味があるのか」ということの表明を、作品制作を通して行い、それを丸ごと認めてもらう。どんな意見も「そうなんだね」と受け止めてもらい、みんなで「それもいいね」という雰囲気になっていく。評価軸ではない学びの場で、誰か大人が「存在すべてを受け止めてくれた」という経験は、彼らに、世界に対する信頼と勇気を与えるのだと思います。
春、ある保育園で出張授業を行いました。すぐにまた訪れるはずが、コロナの状況を鑑みて、再訪できたのは秋になってからでした。幼児期の子どもたちにとって数か月というのは、永遠にも近いほどの長い時間です。(私は、彼らが何もかもすっかり忘れているのではないかと思っていたくらいです。)
その日の朝のこと。園庭で竹馬を見てほしいから「時間があったら、見てください」と彼は園長先生にお願いしました。「(いつもはそんなふうに言葉を使えないのに)丁寧な言い方ができるなんて!」先生は彼の突然の変化に驚きました。
発言からも地頭が良いことがわかるけれど、落ち着きはなく、周囲からは浮いてしまう印象の男の子。感情をコントロールすることが苦手で、その解決方法がわからないために保育士の先生方も、喧嘩やいざこざの対応に追われる日々。先生たちの愛情を独り占めするかのように、遠くの職員室にもいつも彼の声が届いていたそうです。
いつもよりも静かな教室で、その日園長先生は彼の姿を「探さなければどこにいるのかもわからなかった」ことに驚いたと、後でこっそり教えてくれました。彼は一番前を陣取って、前のめりに授業に参加していたのです。
その日の観賞会。彼は発表したいと張り切って手をあげてくれましたが、発言をまだしていない子を順に当てていくうち、ついに時間が来てしまいます。「当てられなくてごめんね」彼はわかりやすくガックリと肩を落とし、ため息をつきました。でも、それだけでした。そう、彼はそのとき、いつものように悔しさを攻撃に転嫁したりせず、自分の気持ちを抑えようとしたのです。
なぜそのような変化が彼やそのほかの子どもたちのなかに起こったのかが、その日の振り返りの時間のテーマとなりました。
「自分という存在を丸ごと認めてもらえるんだ」という“信頼”の記憶が、数か月前のたった一回の授業でも、彼の心に「信頼されうる自分でいたい」という気持ちを引き起こしたのではないだろうか。
言われたことに従うことではなく、自分で決めることを尊重される。意見や作品を大切に聴き、扱ってもらえる。当たり前のようだけれど、そんなふうに“信頼”されていると感じることで、子どもたちの心に、目には見えないけれど“誇り”のようなものを育てるのかもしれません。
それは、「よりよくありたい」という、人間の根源的な成長への喜びのようなものなのだと思うのです。
井岡 由実(Rin)
🌸著者|井岡由実(RIN)
国内外での創作・音楽活動や展示を続けながら、 「芸術を通した感性の育成」をテーマに「ARTのとびら」を主宰。教育×ARTの交わるところを世の中に発信し続けている。著書に『こころと頭を同時に伸ばすAI時代の子育て』 (実務教育出版)ほか。
「Atelier for KIDs」は、 小さなアーティストたちのための創作ワークショップです。
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