3年生になるとテスト嫌いになる?テストのもつ意味と活用法
花まる教室長コラム
テストと聞くと、それだけで何か嫌な感じを覚え身構えてしまう人は多いのではないでしょうか。私自身も年齢を重ね、いい大人になった今でさえ、テストが好きかと聞かれれば、決して好きとは答えられないのが正直なところです。
そもそも、テストをする意味とは。一度考えてみましょう。
いわゆる今の到達段階を測る腕試しということが一つ大きな目的だということは疑いようがない事実だと思います。しかし、本当に腕試しだけが目的であるならば、そこまでテストが嫌われる要因にはならないはずです。
では、なぜテストという言葉を聞くと途端に表情を曇らせる子が多いのでしょうか。答えは簡単で「他者からの評価」というバイアスがかかるからです。先生から、親御さんから、進学したい学校から、あるいは身近な友達からということもあるでしょう。つまり腕試しという側面の傍ら、その日に至るまでの過程を数値化し、平等に力量を見定める評価基準としても、テストは運用されるのもまた事実だということ。どんな美辞麗句を並べても実際のところは「力量を測るための手段」というドライな側面がありますし、むしろ後者の方が強いイメージとして浸透しているのではと思います。
さて、意外と多くの人が「自分は人からどう評価されているのか」をかなり気にしながら生きているものです。自身を振り返ってみても、思春期はもうほとんどそれ(特に異性から)しか考えていなかったような気がします。
「モテるための努力はしないけど、恰好よくは見られたい」
「勉強はしないけど、頭はよく見られたい」
なんて都合のいいことばかりを考える。そして、自分の思い通りに人に見られなければ
「まだ本気を出していない」
なんて赤面物の言い訳を本気でする始末。
「四十にして惑わず」という論語の一説がありますが、「逆に言えばそれまでは惑い続けるのも道理だと考えることもできる」と逆説的に都合よく解釈し「まだ手前だから他者の評価で一喜一憂しながら惑うのも仕方なし」と自らを励ます日々。せめて不惑を迎えた時には正に惑わず達観したいものです。
人は人からの評価をいつから気にし始めるのでしょう。これは現場で見ていると明らかで、確実に小学1年生から3年生の間に大きな変化が見られます。
例えば、花まるの体験授業の一場面での子どもたちの様子。入学したての1年生に「勉強が好きな人?」と聞くと一斉に手が挙がりますが、同じ質問を3年生にしてみると半分以上の子が手を挙げることを躊躇います。なかには見学している親御さんの方にチラリと目線を向けて、目と口の動きでプレッシャーをかけられ渋々手を挙げる子すら見かけられます。はっきりと勉強が嫌いと言い切れる子や、そこまでいかなくても、決して好きではない子から、その理由を聞いてみると総じて「いい点数をとらないと恥ずかしい(怒られる)から」ということを教えてくれます。
『○をつけたがる子が伸び悩む』ということを折に触れ講演や、拙著で伝えてきました。1年生の入学当初は、新たな知識を得ることに純粋な喜びを感じていたはずなのに、3年生にもなると自分は望んでいないのに勝手に測られ、評価されていることに気付く。だったら、○をつけられておきたい。伸び悩む理由は学びへの雑味ではないでしょうか。そう思う子が増えてしまう構図が子どもたちの世界のあちこちに、できているのでしょう。しかし、そこには楔を打ちたいものです。本来、学びというものは人から評価をされるためにするものではないのですから。せめて、人生の岐路になる本番(中学受験、高校受験、大学受験、資格試験、就職試験等々)までのあらゆるテストは、子どもも保護者も『点数で一喜一憂』したり『合っているか合っていないかということのみで評価』したりに傾倒しすぎないようにしてほしいと、願ってやみません。
先日、花まる脳力テスト(通称:HIT)が行われました。
ワクワクしている1年生。一方で学年があがるごとに、露骨に嫌悪感を見せる子どもたち。始める前に伝えました。
「このテストはあくまでも腕試し。点数はつけるけど、できたとか、できなかったからと言って、みんなのことを評価はしない。もし、結果が出たあと、お家の人に出来ていない部分を咎められるようなことがあったら先生が必ず守るから言ってください。ただ一つだけ。できなかったこと、わからなかったことにしっかり目を向ける練習をしよう。ごまかさずに、受け止める練習をしよう。テストって本来そういうもの。そして、○がつかなかったところこそが、これからみんなが伸びるところだよ」
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